先史文明が伝える古からの地球の歴史と未来13 10月10日

 1366万年前に始まったと思われる人類の歴史について以下の項目を説明します。その内容を元にして私たちの文明に重要な動きの始まった8万年前以降の状況について、まとめの記事をお送りします。項目の順番に作業を進めます。
 ここにまとめる記事は、遺跡や遺物に残る直接的で誰にも検証可能な証拠に基づいており、あの世の声を聞いたという証拠の提示できないオカルトの類いとは異なります。科学技術の進歩の結果で得られるデーター類も利用し、客観的な評価に耐える事実とそこから推定できる人類の過去の歴史の流れをお送りします。

1)1366万年前の人類の始まりから8万年前までの遺伝子実験期間
1-1)月と人類の誕生と恐竜との共存 証明されていなかった恐竜絶滅と人類の始まり
1-2)プレート運動の歴史      ホットスポットの教えるプレートの動き
1-3)520万年前と現在の地殻変動、地震予知技術 約520万年前から現代へ解決策を託している
2)暦の遺跡の情報          2度の極移動と暦の変化の記録
3)歴史書と宗教書の情報       極移動に対応した宗教の変遷の記録
4)客観性のない科学の遅れ      権力の支配に利用されている愚かな姿
5)月、金星、火星、ティアマトの状況 忘れられた宇宙技術の遺跡
6)善と偽善の地球の遺跡の情報    世界に散らばる先史文明の遺跡の存在
7)ノーベル物理学賞の問題について  重力波の検出に疑義ありです
まとめの本記事
8万年前以降の歴史の流れと未来    宇宙に文明を拡げる上でのティアマトの再生と、他者と共存する未来の姿

この記事の項目
2)暦の遺跡の情報 2/2
 この記事は暦の遺跡の情報の記事に対して2/2を追加する事にした物です。歴史書と宗教書の解析が進んだ所で、ケルト神話の本が本の山の中から出てきました。せっかくなので解析したところグリーンランド海極時代から現代までの混合数値が確認できました。
 この結果はケルト民族が偽善の側の影響を受けていたことを示すのみならず、イギリスのストーンヘンジもアイルランド神話を通してつながるという事を教えてくれました。
 ハドソン湾極時代のサルミジェゲトゥサ・リージアの遺跡の暦を計測したのも、ストーンヘンジの現代の暦を計算したのも、偽善の側でした。
 これが明確になると、今度は対抗する善の側の遺跡の状況確認が必要です。青森県の黒又山は先史文明の遺跡の一部ですが、近くにある大湯環状列石はハドソン湾極時代の666を意識して作られているだけでなく、近くにある伊勢堂岱遺跡の環状列石がグリーンランド海極時代の遺跡とみられる事も確認できました。ここには665が偶然あるので、6万年前のティアマトの破壊を経て、666の遺跡として大湯環状列石を作り上げて保存していた様子です。
 これらの遺跡は、藤原京の指し示す岐阜県の岩屋岩陰遺跡の巨石とは手法が異なるのですが、サークルを用いて夏至と冬至、その1/2の中間点を指し示す方式で、太陽の暦を残していました。
 これまで日本にはハドソン湾極時代に日本人がアジア中部から移動してきた可能性があると考えていました。他の民族が8万年前から存在しているので、日本人も実際にはその可能性が有るのです。今回の遺跡の見直しは、グリーンランド海極時代に先史文明の遺跡として伊勢堂岱遺跡の環状列石が確認できたことになります。日本人も遙か昔からこの地日本に住んでいた可能性が高くなりました。昔からこの地で起きる地殻変動の始まりを助けて見守る役割を持っていたのでしょう。
 3つの日本の遺跡について説明したいと思います。

a)岩屋岩陰遺跡 現代の暦の遺跡
 岩屋岩陰遺跡の詳しい解説については以下のHPを参照下さい。詳しい説明を見ることが出来ます。

http://www.seiryu.ne.jp/~kankou-kanayama/kyoseki/
金山巨石群の説明 金山巨石群調査資料室 岩屋岩陰遺跡は金山巨石群の1つです。

 こちらとしては日本の遺跡の中での金山巨石群の位置づけと、暦の数値については簡単な説明をしたいと思います。
 奈良の南側、藤原京の解析からは高度な文明とその技術との関わりが示されています。箸墓古墳の寸法には当時の距離の単位である一区が一尋の13倍である事が残されており、メートル距離との換算が出来ていた事が明確になりました。考古学的な統計解析結果とも一致する情報です。一般向けには尋と区で距離を示し、高度な一部の権力者のみが世界標準のメートルで考えていた様です。
 当時のもう一つの技術が暦の技術です。箸墓古墳からは春分秋分に加えて、冬至と夏至が観測出来るように山の峰からの距離が調節されています。都は東西に走る道で構成されていましたので、一般の人々にも春分と秋分は分かりやすかったでしょう。
 奈良と大阪にはもう一つの工夫があり、主要な古墳や神社、寺を通じて構成される70度と110度の傾きの直線です。この直線上から太陽が昇る時は、立春~冬を2~3日の固定したずれ量で人々に教えられます。真東から±20度の直線がこの目的で残されており、遺跡にも組み込まれて伝え残されていました。

 藤原京の回転角の計測中心は黒塚古墳にあり、ここから41.63度が東殿塚古墳を使って示され、その角度の先には飛騨の金山巨石群があります。箸墓古墳から137倍のイシス距離が近くにあり意図された位置の指定と思います。
 この金山巨石群の一つは岩屋岩陰遺跡と呼ばれており、約7000年前の縄文時代の土器の出土に加えて暦の計測地となっていました。当時の暦は365.2424日まで求められており、非常に高い精度でした。このレベルがいつから存在したのかは明確に出来ないのですが、藤原京では311倍して距離を11359mとし、法隆寺の太子殿に向けられていました。これは偶然でなく近くに311.00度の池があり、明確な意図を残していました。グーグルアースでは正確な距離が分からないので精度を後の測量に託すことになりますが、365.242日位まではこの距離から確かめられると思います。

11359/311=365.2411・・・
本来は11360が遺跡に組み込まれる歴史年代です。

 研究論文レベルですが、暦の精度はさらに上まで届いていた様子です。
 イラストに学界の会報の重要部分だけ載せています。一部なので分かりにくいかも知れませんが、結論は128年に31回のうるう年の計測が可能です。

(128x365+31)/128=365.2421875日/年となります。

 論文には結果が凄すぎるのか、数値が書かれていません。私達の暦の精度を超えています。平成23年の理科年表によれば、365.24219日です。現代のグレゴリウス暦は365.2425日であり、これだけの精度までの調整がよくで来た物だと思います。暦の計測も大変ですが、地震でも揺らぐことのない位置を保つのです。日光スポットの位置を恐らくミリ単位に調整する技術はちょっと想像が難しいです。最低限地震動に対するバランスを保っているはずです。石を挟んで角度を調整しても地震の揺れで破壊されるでしょう。何らかの技術の積み重ねがありそうでした。

 岩屋岩陰遺跡は、巨石を組み合わせて特定の角度の日の光を移動する光点とし、この点の動きと暦の関係を明確にした遺跡です。既に説明したストーンヘンジでも50年かかって365.24日までの計算です。手法を変えることで、精度の高い数値を達成しているのが岩屋岩陰遺跡であり、農耕社会における暦の安定した提供が、季節を区分する直線からの日の出日の入りで表せることを教えていました。
 この知識により、日本の他の遺跡でこれ以前の計測地を探す事が出来ています。続きの遺跡は季節を区分する直線を探した結果です。

b)大湯環状列石 ハドソン湾極時代から現代までの暦の遺跡
 イラストにはこの場所に組み合わされている黒又山と伊勢堂岱遺跡、関連する火山などの位置関係を明確にした物を載せています。先史文明の遺跡として、地殻変動と関連する科学であるマグマ溜まりの潰れの仕組みを間接的に教える役割を果たしてくれました。
 東北のこのエリアと北海道には環状列石が多く、古墳ではなく環状列石でした。どうして環状列石なのかは長い事判らなかったのですが、その意味を調べる必要が生まれました。
 偽善の側の暦の遺跡が明確になったので、善の側でも同様に遺跡が存在するはずとなりました。大湯の環状列石は見たことがあるのであまり期待できないと感じていましたが、やはり必要に迫られると様々に考えを巡らせることとなり、この記事に書く結果となりました。
 環状列石にはごちゃごちゃと岩が並べられている感じで、日時計にされている物も含めて岩と石の数で何かを表現しているようには見えませんでした。初めて訪れたときの印象なのでこれを引きずっていたようです。

 Wikiで調べると組石が大きなサークルで48基、もう一方で44基になります。今はこの数字でもう、この遺跡が古代の遺跡と理解出来る状況です。
 図面で正確な位置を明確にしてこの数値の内訳を分析したいところですが、ネットで検索して手に入る図面では不明瞭でした。今後の課題にしますが、この遺跡にはグリーンランド海極時代から現代までの数値が、一通り組みこまれていました。
 恐らく始まりの時代から48基と44基だったのかも知れません。これを上手く利用する事で現代までつないでおり、その連続性を残そうとした遺跡ではないかと思います。主要な部分の位置を変えず、新しい暦向けの新しい位置を遺跡の中に足し込んでいった物ではないかと思います。
 洗練された48基と44基の使い方の例です。

44=30+12+2
30日12ヶ月360日1年
48=24+15+9
月の24宿x15回=360日1年
48x18=864
864+2+9=875
864と875はグリーンランド海極時代とハドソン湾極時代の月の隠ろ日
864/2x7=30240伴星周期
(48+1中心点)x2=98
98x26-10=2538日
グリーンランド海極時代の月100周
44=37+5+2
37x5x2=370+1中心点
370.4日1年の近似で10周して4足す370.4も可能。

 周囲47本x内部5本で乗算して235になる。現代のメトン周期を利用するサークル。このサークルはさらに44+3=47として、44x5+3=223:サロス周期という使い方も可能。
 これらの数値の存在により29日と30日の1ヶ月とメトン周期235月を守る閏月の挿入により、一般的な太陽太陰暦の運用は出来たはずです。
 精度の話ですが、48+15=63も利用可能で、月の34周が63回となり、サルミジェゲトゥサ・リージアの遺跡と同じ月の周期のカウントも可能でした。
 全体としては、48+8=56も可能なので56x8x44+44=19756も可能
19756/223/3=29.53064275・・・
ストーンヘンジと同様の月の周期の計算が出来ている事になる。
 ストーンヘンジでは、月食と日食の予想を可能にする機能があったと思われます。その分複雑な運用をしていたと思われますが、単純に3サロス周期の19756日をかぞえるのであれば、特にそこまでの作業は必要なく皆既月食を数えることになるでしょう。2度目3度目が経度で120度ずつずれるので見えなくなるのですが、4回目には戻ってくるのであり1時間程度早まって月食が起きる程度でしょう。この計測には時間がかかるだけで難しさはありませんでした。
 大湯環状列石にこの組込を残しているのは、技術としてこれを知っているという表現ではないかと思います。農耕生活に重要な暦の区分は以下で表されていました。こちらもイラスト参照下さい。当時の緯度は極点からの距離より逆算して求めています。地球の扁平率の推定が出来ないので多少の誤差を含みますが、大きなずれはないでしょう。

現代の組み込みは黄色の矢印
6/21         57.820度
8/20と4/22    72.618度
10/23と2/20  104.046度
12/21       120.657度

ハドソン湾極時代の組み込みは青色の矢印 365日の暦の換算で
6/21         65.666度
8/20と4/22    76.790度
10/23と2/20  101.301度
12/21       113.936度
極は21.1度のずれ

グリーランド海極時代の組み込みはグリーンの矢印 365日の暦の換算で
6/21        54.269度
8/20と4/22   66.598度、恐らく66.6度
10/23と2/20  93.462度
12/21      107.408度
極は-8.72度のずれ

 一通りを調べたところで、8月20日における666が確認出来てしまったので、ここは求めているグリーンランド海極時代の遺跡ではなかった事になりました。666の組込は岩のドームに見る様に、6万年前のティアマトの破壊を経て、世界の遺跡がティアマトの再生を願って組み込んでいる数値だからです。
 それでも岩屋岩陰遺跡同様に暦の時期を選んで運用している姿は明確でした。続きの調査を他の環状列石で進める事にしました。

c)伊勢堂岱遺跡 グリーンランド海極時代から現代までの暦の遺跡
 既に紹介しているように、北海道と東北地方の火山と遺跡の位置関係では、伊勢堂岱遺跡が重要な位置を占めている事は明確です。続きにこの遺跡の解析を行いました。
 遺跡はまだ発掘の途中の様子で、メインのサークルは明確ですが周辺に存在すべき小さなサークルは破壊も進んでいるのかまだ見つかっていない様子です。
 それでもメインのサークルは現代の東西を、サブのサークルはハドソン湾極時代の北極を指し示しているので、古い事は間違いないと判りました。
 この遺跡においてグリーンランド海極時代の求める角度を計算した結果です。 

グリーランド海極時代の組み込みはグリーンの矢印 365日の暦の換算で
6/21        54.163度(m)
8/20と4/22   66.490度(m)
10/23と2/20  93.351度(m)
12/21      107.295度(m)
極は-8.83度のずれ

 調べた結果ですが、サブのサークルの中心から、距離でグリーンランド海極時代の暦の数値を残していました。小さな塚がバラバラに存在しても意味が忘れられて撤去される事態を恐れたと思われる状況です。
 メインのサークルの北側に37本分の柱の痕があります。この中で1本だけペアのない柱が8/20の距離と北極の方向を示す様に配置されていました。
 まだ発掘の途中なのでどこまでの組み込みが明確になるのか分かりませんが、この地でグリーンランド海極時代の暦の計測が行われていた事を、簡単には消されないように工夫して残してくれている遺跡でした。
 時代区分としてはグリーンランド海極時代から現代までのサークルが確認できる状況であり、8月20日の方向は66.49度でした。この地にあってティアマトの破壊を目にした人々は、遺跡として666を表現するために、大湯環状列石の位置にも遺跡を残そうとしたのでしょう。
 イラストの青森のグーグル画像からは、約0.1度の極方向の変化がご理解頂けると思います。666を表現するために可能な配慮だったので、当時の人々はティアマトの再生を願い、その地に遺跡を残したのでしょう。

 当時の人々が8万年前に農耕社会への移行に際して、季節の区分を利用する事を考えたのでしょう。大湯を経て伊勢や奈良でも改良されて使われていたのではないかと思います。1年を6等分して季節にするような利用です。その中間点も日数を数えるだけなので、稲の種まき等、現実の推移を見ながら行えていたのではないかと思います。
 他のエリアの状況はまだ調べていなのですが、この記事のために大急ぎで調べた九州の西都原古墳群には、南側の古墳群にはグリーンランド海極時代の4つの角度が、北側の古墳群にはハドソン湾極時代の4つの角度が組み込まれています。多少のずれを組み込んでいるのか明確ではないのですが、古墳の中心よりわずかにずれていたり、円墳と方墳の中間を利用していたりします。東北の物ほどその意図を明確にはしていません。一つは消えかけている塚でした。
 この意味で情報だけを組み込んだ物か、それとも当時から人々がその地に存在していたのか、明確ではありません。それでも東北地方に人々が社会を築いていたのであれば、さらに南のこの地でも同様に社会を保てていたでしょう。現状はその可能性の指摘に留まりますが、日本の遺跡も見直しが必要な事は間違いないでしょう。
 簡単に思いつく別地区の類似の遺跡が西都原でした。暦のサークルはありませんが、季節の角度を表す基線は各地の遺跡に日本の特徴として存在するようです。確認した結果が再調査を促しており、様々な巨石遺構にグリーンランド海極とハドソン湾極時代の組み込みが確認できるのではないかと思います。

西都原古墳群の組み込み数値 参考まで、これらは現在の角度での表記です。
ハドソン湾極時代の組み込み 365日の暦の換算で
6/21         82.685度
8/20と4/22    93.484度
10/23と2/20  117.349度
12/21       129.636度
極は16.21度のずれ
グリーランド海極時代の組み込み 365日の暦の換算で
6/21        54.223度
8/20と4/22   65.834度
10/23と2/20  91.302度
12/21      104.464度
極は-10.34度のずれ

 ここまで学校で教えられる考古学の内容とは異なる現実を見てきました。これらの学問における査読が如何にひどい物であるかを改めてまとめておきます。遺跡の古さもそうですが人類の古さも同様に、遺伝子科学の出鱈目を明確にしています。
 イラストには北アメリカ大陸の遺跡に残されている物を載せています。インディアンしかいなかった事にされていますが、実際にはエジプトやヨーロッパとの交流があり、文字も遺跡も残されていました。考古学は西欧社会の先進性と古さを主張する必要があり、またキリスト教的に過去の文明の存在があると教義が破綻するので、彼らの作ったキリスト教よりも古い物を否定してきているのです。
 ミクマク象形文字はエジプトのヒエログリフとほぼ同じ形であるだけでなく、文字の意味まで同じなのです。このレベルが偶然で起きると考えるのは社会科学にならないですし、シャンポリオンよりも古いにしても、彼がヒエログリフを解いた業績が低くなるわけではないのです。
 コロンブスが米国大陸を発見したなどは、史実に基づかない嘘でしかないのです。アイルランドのオガム文字もリビアの文字も、そこに交流があった事の証明でしかないのです。
 ピラミッドについては様々に書いてきています。今回の関連記事で改めて人間の歴史の古さを知る事になっており、大ピラミッドは新しい部類の遺跡になります。約11360年前の遺跡であり、建設だけでなくその精密な測量に支えられた配置は、クフ王の時代には失われていた技術だったでしょう。岩のドームとサマルカンドを重ねてみたり、バールベックの神殿にも同様の配慮が666を通して向けられています。

 これらは査読と言うよりも政治的な問題でしかないでしょう。一方の証拠は認められて他方は無視されているのですが、ここに根拠はないのです。査読者が決めつけていると言える部分でしょう。文字に書かれた物を重視してエジプトの歴史を解くにしても、そこに嘘が混入するのはいつの時代も共通です。二つの証拠を併存させられない所には、客観性の無さしか感じ取る事は出来ないのです。
 政治的な意味で言えば、全てを見通す目をドル札に入れて広めているのが偽善の側の存在達になります。自分たちが監視しているという事になるのですが、善の側の存在達からすれば、今の時期にエジプトのピラミッドの頂点に重なるシリウスやリゲルなどの意味を知る事を促しているとなります。
 今のところ査読により、ここに書いた記事の言及する遺跡の古さは認められない物になります。現実にそうであるのかどうか、読者の皆さんが考える事であり、証拠は今後も増え続けるでしょう。キリスト教の嘘が明確になるところで、多くの歴史は見直される事になり、この地の過去の歴史の真実に向き合えるようになるでしょう。
 遺伝子科学の査読も全く当てにならない部分を持つ事は間違いありません。日本人も、アーリア人も、南米の人々も6万年以上前からその場所に暮らしており、社会を築いて活動をしていました。
 これに対する遺伝子科学、工学の評価は全く現実を反映していないでしょう。私たちはアフリカの黒人の遺伝子が白人や黄色人種、赤色人種に変わる様子を目にしていませんし、どの様にその変容が起きるのかも全く知らないのです。

 ミトコンドリアの証拠を検討してこれらの突然変異が起きたと決めつけるのは、全くもって無理だったのでしょう。どうしてここまで飛躍できるのか、査読にそのレベルを確認する能力など全くない事を表しています。分からない事を分かった事にしているのが遺伝子科学と工学の査読でした。これで人の遺伝子を操作すれば、その結果に責任なと持てるわけがないのです。
 私たちは古い事を評価する科学をまだ持たないに等しいのです。遺跡の古さは5万年以上前に遡る事が難しい様子ですし、遺伝子の証拠は現状では全く役に立たないです。この証拠は見直されて他に拾い上げられる物があるかを評価する事になると思います。
 日本人は南から琉球を経由して船で渡ってきたとか、北からサハリンを経由して渡ってきたとか言われてきました。こちらも遺跡の古さの証拠と遺伝子の流れをそれなりに正しいと考えて過去の記事を書いてきました。残念ですが、彼らの査読に騙されてきたようです。
 少なくとも6万年前には日本列島に社会を築いて暦を利用して農耕生活を送る人々が存在していました。彼らは日本の各地にいた可能性が高く、アイヌと琉球の人々が私たちの祖先に近いのではなく、彼らは大陸の影響をより強く受けている人々でした。この可能性の方が高いでしょう。
 私たち日本人はこの日本列島に古の過去から住んでいるのであり、先祖達は500万年前の地殻変動さえも経験し、その困難を乗り越えて現在の私たちに未来を託している可能性の方が高いでしょう。過去を知り責任のある態度を身につけてゆく必要があると思います。未来の平和と地殻変動に対する対応が今、問われているのでしょう。

稲生雅之
イオン・アルゲイン