先史文明が伝える古からの地球の歴史と未来6 9月28日

 1366万年前に始まったと思われる人類の歴史について以下の項目を説明します。その内容を元にして私たちの文明に重要な動きの始まった8万年前以降の状況について、まとめの記事をお送りします。項目の順番に作業を進めます。
 ここにまとめる記事は、遺跡や遺物に残る直接的で誰にも検証可能な証拠に基づいており、あの世の声を聞いたという証拠の提示できないオカルトの類いとは異なります。科学技術の進歩の結果で得られるデーター類も利用し、客観的な評価に耐える事実とそこから推定できる人類の過去の歴史の流れをお送りします。

1)1366万年前の人類の始まりから8万年前までの遺伝子実験期間
1-1)月と人類の誕生と恐竜との共存 証明されていなかった恐竜絶滅と人類の始まり
1-2)プレート運動の歴史      ホットスポットの教えるプレートの動き
1-3)520万年前と現在の地殻変動、地震予知技術 約520万年前から現代へ解決策を託している
2)暦の遺跡の情報          2度の極移動と暦の変化の記録
3)歴史書と宗教書の情報       極移動に対応した宗教の変遷の記録
4)客観性のない科学の遅れ      権力の支配に利用されている愚かな姿
5)月、金星、火星、ティアマトの状況 忘れられた宇宙技術の遺跡
6)善と偽善の地球の遺跡の情報    世界に散らばる先史文明の遺跡の存在
まとめの本記事
8万年前以降の歴史の流れと未来    宇宙に文明を拡げる上でのティアマトの再生と、他者と共存する未来の姿

この記事の項目
3)歴史書と宗教書の情報 2/3

 アヴェスターに書かれていたソーマ酒の事を説明しました。ここでは汚水であり酩酊の尿という表現です。ここまでの表現であるのにもかかわらず、ハオマ酒としてソーマ酒を礼賛する章が3つもあるのです。
 良く出来ている事に、汚水であり酩酊の尿という表現は48章ですが、礼賛する章は9~11章です。前にあって既に説明されていることになるのです。
 訳本にもゾロアスター教の教祖のザラシュストラがハオマ酒を認めていたかは疑問が出されていると書かれています。ここまでこき下ろす物が神聖な物として事前に紹介される部分にはこちらとしても疑問を感じるのです。
 この後に宗教間の影響という物を評価しますが、ここにある表現もこの種の影響だと思います。後世の人々にとって多くの人々の知る教祖ザラシュストラの言葉である、汚水であり酩酊の尿、という言葉を替えることは出来ないのですが、これを打ち消す言葉を経典に書き加えることは可能だったのでしょう。教祖の死後に静かに浸透することが出来たはずです。

 この種の酩酊物質は大麻を始めとして、世界中でシャーマンにより利用されてきたのがこの地の歴史であり否定の出来ない現実です。文字のない場所では記憶の継承が難しいのであり、人類の経験をあの世の情報から得ていたと考えられるのです。病気になったときにどの薬草を探して服用すれば良いのかなど、膨大な経験があるにしてもそれを書き残すことが出来ない場所が多かったでしょう。その様な場所では有名なアヤワスカを始めとしてベニテングダケのように、酩酊をあの世へのアクセスに利用していたのでしょう。シベリアの物も同様の目的ではないかと思われます。
 この現実には教祖ザラシュストラといえども逆らえないのです。現実をなかったことには出来ないのであり、実証主義的にこのハオマ酒の効用を教えるふりをして、リグ・ヴェーダへの悪影響を減らす言葉を経典に組み込ませることに成功しているのでしょう。人間の本質的な部分に反すれば、その部分を利用されるという結果が出てしまう部分です。
 それでも教祖ザラシュストラの求めた善政には、バラモン僧のそれとは比較できない犯罪性のなさがあるでしょう。バラモン僧達は知識を利用して反撃したのでした。アヴェスターにハオマ酒を悪くないと追加することは出来ても、言葉を一致させるところまでの影響力は行使できず、組み込み位置の不自然さを残した部分は他の勢力からの影響があったことを暗に証拠として残した物になると思います。後から様々に自分達の行動が比較されることを考慮していたとは思えない部分です。
 少なくともインド側のバラモン僧達は、ゾロアスター教に困っており反撃をしたと考える必要があると思います。

 この続きが仏教との争いです。お釈迦様は偽善の側の宗教としてのバラモン僧達を以下の様に批判しています。少し長くなりますが、こちらの言葉で偽善の側を批判するよりも、お釈迦様の言葉で批判する方が何倍も効果があるでしょう。

七、バラモンにふさわしいこと
 わたくしが聞いたところによると、ーーあるときと尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、(孤独な人々に食を給する長者)の園におられた。そのときコーサラ国に住む、多くの、大富豪であるバラモンたちーーかれらは老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達していたがーーは師のおられるところに近づいた。そうして師と会釈した。喜ばしい思い出に関する挨拶のことばを交したのち、かれらは傍らに坐した。
 そこで大富豪であるバラモンたちは師に言った、「ゴータマ(ブッダ)さま。そもそも今のバラモンは昔のバラモンたちの守っていたバラモンの定めにしたがっているでしょうか?」〔師は答えた〕、「バラモンたちよ。今のバラモンたちは昔のバラモンたちの守ったバラモンの法に従ってはいない。」「では、ゴータマさまは、昔のバラモンたちの守ったバラモンの法を我らに話してください。ーーもしもゴータマさまにお差支えがなければ。」「では、バラモンたちよ、お聞きなさい、よく注意なさい。わたしは話してあげましょう。」「どうぞ」と、大富豪であるバラモンたちは、師に答えた。
 師は次のことを告げた。 ー

 昔の仙人たちは自己をつつしむ苦行者であった。かれらは五種の欲望の対象をすてて、自己の(真実の)理想を行なった。
 バラモンたちには家畜もなかったし、黄金もなかったし、穀物もなかった。しかしかれらはヴェーダ読誦を財宝ともなし、穀物ともなし、ブラフマンを倉として守っていた。
 かれらのために調理せられ家の戸口に置かれた食物、すなわち信仰心をこめて調理せられた食物、を求める(バラモンたち)に与えようと、かれら(信徒)は考えていた。
 豊かに栄えていた地方や国々の人々は、種々に美しく染めた衣服や臥床や住居をささげて、バラモンたちに敬礼した。
 バラモンたちは法によって守られていたので、かれらを殺してはならず、うち勝ってもならなかった。かれらが家々の戸口に立つのを、なんぴとも決して妨げなかった。
 かれら昔のバラモンたちは四十八年間、童貞の清浄行を行なった。知と行とを求めていたのであった。
 バラモンたちは他の(カーストの)女を娶らなかった。かれらはまたその妻を買うこともなかった。ただ相愛して同棲し、相和合して楽しんでいたのであった。
 (同棲して楽しんだのではあるけれども)、バラモンたちは、(妻に近づき得る)時を除いて、月経のために遠ざかったときは、その間は決して婬欲の交わりを行わなかった。
 かれらは、不婬の行と戒律と正直と温情と苦行と柔和と不傷害と耐え忍びとをほめたたえた。
 かれらのうちで勇猛堅固であった最上のバラモンは、実に婬欲の交わりを夢に見ることさえもなかった。
 この世における聡明な性の或る人々は、かれの行いにならいつつ、不婬と戒律と耐え忍びとをほめたたえた。
 米と臥具と衣服とバターと油とを乞い、法に従って集め、それによって祭祀をととのえ行なった。かれらは、祭祀を行うときにも、決して牛を殺さなかった。
 母や父や兄弟や、また他の親族のように、牛はわれらの最上の友である。牛からは薬が生ずる。
 それら(牛から生じた薬)は食料となり、気力を与え、皮膚に光沢を与え、また楽しませてくれる。(牛に)このような利益のあることを知って、かれらは決して牛を殺さなかった。
 バラモンたちは、手足が優美で、身体が大きく、容色端麗で、名声あり、自分のつとめに従って、為すべきことを為し、為してはならぬことは為さないということに熱心に努力した。かれらが世の中にいた間は、この世の人々は栄えて幸福であった。

 しかるにかれらに誤った見解が起った。次第に王者の栄華と化粧盛装した女人を見るにしたがって、
 また駿馬に牽かせた立派な車、美しく彩られた縫物、種々に区画され部分ごとにほど良くつくられた邸宅や住居を見て、
 バラモンたちは、牛の群が栄え、美女の群を擁するすばらしい人間の享楽を得たいと熱望した。
 そこでかれらはヴェーダの呪文を編纂して、かの甘庶王のもとに赴いていった、「あなたは財宝も穀物も豊かである。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」
 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、ーー馬の祀り、人間の祀り、投げ棒の祀り、ヴァージャペッヤの祀り、誰にでも供養する祀り、ーーこれらの祀りを行なって、バラモンたちに財を与えた。
 牛、臥具、衣服、盛装化粧した女人、またよく造られ駿馬に牽かせる車、美しく彩られた縫物ーー、
 部分ごとによく区画されている美事な邸宅に種々の穀物をみたして、(これらの)財をバラモンたちに与えた。
 そこでかれらは財を得たのであるが、さらにそれを蓄積することを願った。かれらは欲に溺れて、さらに欲念が増長した。そこでかれらほウェーダの呪文を編纂して、再び甘庶王に近づいた。
 「水と地と黄金と財と穀物とが生命あるひとびとの用具であるように、牛は人々の用具である。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」
 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、幾百千の多くの牛を犠牲のために屠らせた。
 牛は、脚を以ても、角を以ても、何によっても決して(他のものを)害うことがなくて、羊に等しく柔和で、瓶をみたすほど乳を搾らせてくれる。しかるに王は、角をとらえて、刃を以てこれを屠らせた。
 刃が牛に落ちるや、そのとき神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹たちは、「不法なことだ!」と叫んだ。
 昔は、欲と飢えと老いという三つの病いがあっただけであった。ところが諸々の家畜を祀りのために殺したので、九十八種の病いが起った。
 このように(殺害の)武器を不法に下すということは、昔から行われて、今に伝わったという。何ら害のない(牛が)殺される。祭祀を行う人は理法に背いているのである。
 このように昔からのこのつまらぬ習俗は、識者の非難するものである。人はこのようなことを見るごとに、祭祀実行者を非難する。
 このように法が廃れたときに、隷民(シュードラ)と庶民(ヴァイシャ)との両者が分裂し、また諸々の王族がひろく分裂して仲たがいし、妻はその夫を蔑むようになった。
 王族も、梵天の親族(バラモン)も、並びに種姓(の制度)によって守られている他の人々も、生れを誇る論議を捨て、欲望に支配されるに至った、と。

 このように説かれたときに、大富豪であるバラモンたちは、師にいった、「すばらしいことです! ゴータマ(プッダ)さま。すばらしいことです!コ-タマさま。あたかも倒れた者を起すように、覆われているものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされた。ここで、われらはゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、われらを在俗信者として、受け入れてください。今日から命の続く限り帰依いたします。」

 バラモン僧達が利益に溺れて宗教を利用するように変わっていった部分が説明されており、当時の状況を表していると考えさせられる説明です。
 参考ですが、ウパニシャッドには人間の修行が24年、続きに44年、その続きに48年とされています。その後に116年生きた者もいると書かれています。お釈迦様の言及している48年はこの48年の可能性があると思われます。祭式により無病息災になると書かれています。
 普通に考えるならば、本来の寿命が1000年あれば、またさらに長ければ、始まりの116年を修行に当てても良いでしょう。寿命が100才の時代にこの48年の修行を行うのであれば、これは修行と言うよりも戒律の類いでしょう。一生続ける必要のある物と同等です。これ以外にも随所に意味の通りにくい部分を見いだせるのが、歴史書と宗教書になります。お釈迦様の説明では、48年過ぎてからがバラモンとしての本来の活動であると感じられると思います。当時は116年過ぎてやっと一人前だったのでしょう。

 バラモン僧達の側も負けずに仏教への攻撃を繰り出します。当時のバラモン達は、社会の中にあっては、台頭してきた王族クシャトリアとの競争の方が苛烈であったでしょう。この部分はマハーバーラタとラーマーヤナに現れています。これらを順に見てゆきたいと思います。
 まず、リグ・ヴェーダの中に残されているクシャトリアへの中傷です。プルーラヴァス王とウルヴァシー精女との対話です。人間と天女の恋とされています。子供を授かり夫婦として暮らしていたのですが、天女を天に戻すための半神族達の策略によりウルヴァシーは天に帰ることになったとされています。以下その後の再会時の会話です。

 (ウルヴァシー)日に三たび君は竹の棒を持てわれを突けり。さらにまた求めざるときにもわれを愛撫せり。プルーラヴァスよ、われは君が意志に従えり。そのとき君は、勇士よ、わがからだの支配者なりき。

 ウルヴァシーは私の心を捉えることは出来なかったと諭すのみならず、わがからだの支配者でしかなかったとしています。
 この部分が唐突にリグ・ヴェーダに登場します。こちらは日本語訳として原文の抜粋を読んでおり解説に状況の説明があって状況が理解できています。
 王族クシャトリアは性欲の制御できない存在であり、バラモンこそそれを可能にしていると言いたいのでしょう。中傷という以外に言葉が見つからない状況です。

 続きの評価になるマハーバーラタはクシャトリアの争いを描く物語です。もともとはクシャトリアのためにクシャトリアが書いたと思われる物語が、バラモンの介入により今の姿になったのではないかとも言われています。争いのむなしさを描いているのですが、そこにはバラモンの姿も描かれており、示唆に富んでいます。
 クリシュナはバラモンとして主人公のアルジュナを導いていますが、様々な場面でクシャトリアを滅ぼす行動を取っており、バラモンの望みを叶えています。しかしその方法が卑怯な方法、当時の人々は回避する方法などであり、倫理的に問題のある行為も断行させているのです。
 分かりにくいと思いますので日本の例を挙げます。平家物語における源九郎義経は悲劇のヒーローです。戦いに強かった部分は真実であると思いますし、天才的だと感じる部分もあるのですが、最後の壇ノ浦の戦いにおいて、武士が取らない卑怯な手段に訴えて勝利を得ています。当時は戦場において、武士ではない船の操舵手を殺すことはない時代でした。これをすれば卑怯者になるのです。その卑怯な手段を用いたのが源九郎義経でした。
 これをすると、武士の信頼を大きく失います。事実この後源頼朝により破滅に向かう流れになるのです。倫理的に信頼できないとなれば、状況も変わらざるを得ないのです。人々の思いには様々な物があり、彼を哀れむ声が出ることも当然ですが、政治的には覇者になる以外に自分を正当化できなくなっているのです。
 この意味でクリシュナは関わるクシャトリアを滅ぼし続けて、自分の種族も同様の憂き目に遭うという結果です。当然と言えば当然かも知れませんが、この終末であるからこそ、バラモンの介入による物語の修正も受け入れられる物になったのでしょう。
 バラモン達はクシャトリアの名誉を汚したいのですが、同時に自分達も傷つく事になり両者の悲劇が人々の心を打つのでしょう。あと、偽善の側のバラモンとしてバカバドギーター残されている「結果を憂うことなく行為に没頭する」は、こちらとしては偽善の側の生き方であり、争いを避けることが出来なくなる部分を生み出していると考えています。

 比較するラーマーヤナはバラモンの介入が明確です。こちらの物語にはクシャトリアとバラモンの争いは描かれておらず、クシャトリアの活躍物語のはずでした。
 簡単にストーリーを説明すると、ラーマ王はシーター妃と結婚し王位を継ぐ予定でしたが、その父がだまされての結果、森に追放されます。ラーマの弟君がそれに従い森で暮らしていました。
 シーター妃の美しさが有名であったので、敵役の魔王がシーター妃をさらいます。彼女を取り戻す物語がラーマーヤナです。
 猿王ハヌマーンの協力を得て敵地に攻め込み、魔王を倒してシーター妃に再会しますが、この時に身の潔白を証明させています。見事に潔白は証明されて愛する后を取り戻し無事凱旋して円満に終わるという所までが、クシャトリアの描いたハッピーエンドの物語でした。
 これに対して、バラモンは続きの物語を創作します。帰国後に王位に就いたラーマですが民衆のシーターの潔白を疑う声に我慢が出来なくなり妊娠している彼女を追放せざるを得なくなったとされています。ラーマ王が民衆の評判をあまりにも気にしすぎるからだという設定です。
 シーター妃は運命を受け入れて追放されて子供を育てるのですが、また身の潔白を求める話が生み出されてラーマの前でその潔白を証明します。潔白なら地に帰るという物でした。彼女の潔白は証明されて地に帰るのですが、ラーマはその後妻を娶らず失意の内になくなったという悲劇に変えられているのです。ラーマも優柔不断化されているでしょう。
 バラモンの介入の根拠は、マハーバーラタにラーマーヤナの要約がラーマ物語として入っているところです。しかも、最後に追加されている悲劇の部分は存在しないのです。

 この部分は分かりやすいところであり、バラモンが介入した物である事を証拠に残している部分でしょう。この要約をマハーバーラタに加えたバラモンは、悲劇の部分を準備して拡げた人々と同じ考えで行動していたのでしょう。
 悲劇が庶民に受ける部分は古今東西どこでも共通なので、この不自然と言える悲劇の物語が、恐らくラーマーヤナの著者ヴァールミーキの筆ではないにもかかわらず、人々には急速に広まって一つの物語として語られるようになってしまったのでしょう。実なこんな話が続きにあったという触れ込みで拡げれば良いだけです。
 こちらの感覚では、一度身の潔白を証明したのに、これを繰り返すのはラーマ王の描かれている正義の姿に反すると思います。理由に民衆の評判を上げることで上手く物語にしているのですが、この部分にはハッピーエンドを悲劇に変える目的しか感じられないのです。加えてこの部分を抜いた要約まで別の物語に加えているのです。この要約がなければ、こちらもここまで書く事は出来ない部分なのです。

 根底にある支配の宗教としての性格を考える時、バラモンもクシャトリアも民衆の支配には成功しています。今は信仰の対象がシバ、ビシュヌ、ブラフマーです。身分差別が歴然として残る部分があるのですが、人々は目の前にある社会の問題よりも、自分が来世により良いカースト身分に生まれる事を考えるようにされているのです。
 この状況は恐らく民主主義の発達と共に変化してゆく予定であり、こちらが遅れていると憂うだけのレベルですが、身分制度こそ支配の根源にある物であり、双方ともこれを上手く利用してきたのがこれまでの流れでしょう。

 クシャトリアとバラモン達の争いを見たところで、続きは仏教への攻撃です。仏教では悟りのために妻帯しない部分が強調されることが多いのですが、それが全てではなく性欲を制御できている部分が重要です。
 イラストに載せたモヘンジョダロの印章に描かれているムーラバンダアサナの瞑想姿勢ですが、説明によれば、ペニスを勃起させている状態が絵になっているとこのとです。ほとんど不可能と思えるかかとを前に出してつま先を後ろに向ける姿勢です。この状況の苦痛の中でも自由に勃起できるという修行の一種かも知れません。
 この状況を素晴らしい姿として描くので、これを中傷するのがバラモン僧達の目標になることは、残念ですが普通の発想でしょう。ヨーガにはタントラという性的な物が元からあるので、これを仏教に輸出すれば良いだけでした。交合の姿勢で描かれるタントラは、仏教の評価を性的な部分で大きく後退させることに成功しているでしょう。
 仏教側では性的な物を全て否定するという訳にはいかないはずです。否定すれば人の在り方に反する物となり子孫を残せなくなる部分から、大きな反撃を受けることになるのです。現状それなりに取り込んで上手くいなしているところだと思われます。
 こちらの知る範囲でチベットと北京にタントラは存在し、インドにもヒンズー教の物として存在しているでしょう。仏教への攻撃材料として考える時に、この配置は結果として攻撃の結果生み出された物である部分を明確にしていると思われます。

 仏教側の反撃と書いて良いのか分からないのですが、仏教はバラモン達よりも進んでいるところを表現する様になっています。こちらの知識ではいつから仏に性別がなくなったのか判らないので明確に言い切ることが出来ないのですが、スッタニパータを読んだ限りでは、仏の性別問題には言及がなかったと思います。まだ理解が出来ていないだけかも知れませんので、この状況が始まった時期は不明瞭としておきます。
 バラモン達は性を攻撃材料に選ぶのですが、同時にバラモン達が性欲を手放せない事を明確にしていると思われます。仏教の神々は中性であり男女の区別がなく、ヒンズー教の神々とは異なるのです。
 仏教ではあの世の魂に性別のないことを教えているのです。あの世の姿が理解される時にバラモン達の性欲の為の無知の装いが人々を騙してきた物として明確になるでしょう。彼らはこれを知らないのではなく、自分達の性欲の満足のために、秘密にしてきているのです。仏教でも妻帯して宗教の道に進むことも出来るのに、バラモンでは根底からこの部分を隠したいのでした。性欲に何らかの制限がつくと言うだけなのに、これを嫌っているのです。

 あと、関連して余計なことかも知れませんが、あの世の魂に性別がないのは様々な転生物語を見ても明確であり、誰もが男女の双方を経験しているようです。この時に男ばかりが続いてその後女になる時、またはその逆の場合、事前に自分の運命として受け入れた性を、生後受け入れられないケースが生まれてくると思います。
 男なのに女に生まれたかったという一種の執着の話です。魂の成長としてみるときに両性のバランスが必要と言われており、どちらかに偏るからこそこの問題が生まれる部分があると思っています。特に病気でも何でもないのですが、この世とあの世の魂と肉体の関係を知れば、自分の執着に気づける部分も大きいのではないかと思います。
 問題が大きくなると簡単には問題に向き合えないので、性転換したりまでゆく事もあるでしょう。その後の転生において再びバランスが求められることになるだけであり、恐らく続きがあるでしょう。解決を一度の人生に頼り切る必要はないのですが、この世とあの世のことが理解されるようになれば、病気のように考えられることのなくなる部分が大きくあると思えています。この問題に悩む人への理解も同時に、必ず大きく進む事になるでしょう。

稲生雅之
イオン・アルゲイン