日本の空港でのテロが予想されたことで、こちらの予定していた宗教批判の動きが出来なくされており、結果としては神という概念についての理解を深めることになりました。その内容を記事に書いてこの世界の仕組みの理解につながった所でしたが、なすべき事としてはまだ十分ではありませんでした。
宗教や神事がこの世界に平和をもたらして人々を救うことはなく、人々の動きがこれを行う事になるのですが、そうなるまでは人々は神にすがる気持ちを失わず神への依存関係が根底に残るでしょう。自分より優れた物には敵わないと感じるのは普通であり、支配する側はこの思いを利用するのです。
人間の弱さをどこまでも利用する行為ですが、人は弱いだけではありません。状況を知れば変われますし、騙されていると分かれば、その部分を修正出来るのもまた、人の力でしょう。
今の宗教は人を利用する部分が強く、神という強者への依存を促す物が多いのです。この世界の神はその様な物ではなく、過去の人類の経験の集合体であり今あの世にいる人々の総意でもあるでしょう。これを如何にも人々を救う絶対者であるかのように見せるのが一部の支配の宗教でしょう。
偽善の側の宗教であるキリスト、イスラム、ユダヤの宗教は、神を絶対化してこれに対する依存を求める宗教であり、人々の自立を認めず隷属させて支配する教えです。その教義の嘘が明確になると、その教えの根底が崩れれて人々の信頼を失うことになるでしょう。関連する情報公開が進む事で後戻りの出来ない変化が起きてくるのです。
この時に善の側の宗教はどの様に変化するのでしょうか。善の側の宗教は生き方を教える事が普通ですが、沖縄の神事のように、平和につながる未来への情報を提供することを進めている物も存在しています。ここにどれだけの信頼があり、どの様な未来があるのかを考えています。その結果を公表したいと思いこの記事を書いています。
今の時点で戦争を求めているのは、キリストとイスラムとユダヤ教でしょう。偽善の側の一神教として、遺跡に組み込まれている未来の計画に従い、自分達の立場を全うしている所です。メギドの丘の核戦争を経て、2018318におけるロシアを標的とした第三次世界大戦の引き金を引こうとしている所でしょう。
善の側はこの戦争を止めるべく動いており、予定通りに進む事が出来れば2018425における中国共産党と軍産議会複合体の崩壊へとつながる流れになるでしょう。
ここまで進む事が出来れば、今神事がこちらに向けて起こしている犯罪的行為も、未来の平和の為に必要な行為であったと多くの人が考える事も可能でしょう。嘘も方便はお釈迦様の言葉とされており、くそまじめなだけではこの世界を生きて行けないという事でもあるでしょう。
神事はこの部分でリスクを取っているのであり、平和を得られなければ犯罪的行為がそのまま人々の準備して来た情報公開を邪魔する物にしかならないのです。悪い方向に流れた場合のその結果は、神事が人々に拒否されて消えてゆく姿でしょう。当事者が必要悪とした状況を利用しても結果を出せないのですから、この場合はどうにもならないでしょう。
これに対して上手く物事が流れた場合、彼らに何が出来るでしょうか。そして彼らはどうあるべきでしょうか。この点を述べておきたいと思います。
神に選ばれて神事をするのは普通に考えると人として名誉なことであり、神事がうまく進んで平和が達成出来れば、その実行者は神の如く賞賛されて大きな宗教にもなるでしょう。ここに犯罪的行為を組み合わせると、その賞賛も大きな宗教への道も、犯罪的行為という大きな問題があることで上手くは進まないでしょう。
現実に沖縄の神事はこの路線です。宗教の抱える問題点を理解しているので、大きな宗教にする為の動き、準備をしていることはないのです。
神の教えに従って人としての自立を手放すと、過去の地球の文明のように、宗教対立から文明を滅ぼすほどの争いを起こす事になります。今この世界に残る善と偽善の争いの結果には、過去の崩壊が避けられなかった姿を残しています。
人々の自立を尊重する文明の場合に、宗教はどの様な立場になるのでしょうか。宗教はこの世界の真実を、あの世に残されている情報から伝える役割を持っています。この世界の姿が分からなければ、未来に向かって進んでゆく文明の方向性を考える事は出来ないでしょう。あの世の存在に宗教を通じて支配される場合には関係のないことですが、この状況が文明の未来を滅ぼす事態しか起こしていない以上、この世界の人としての振る舞いが文明を滅ぼさないあり方を追求する物になるでしょう。
その結果が沖縄の神事の状況に現れているのです。彼らは犯罪的行為と宗教として人を支配することなく大きな物にもならないことで、あの世の情報を伝えることに特化しようとしています。祈り回るその姿には各地の地震などのエネルギー調整が重要であることも表していますが、支配を手放して情報を伝える部分を重視していることは、多くの人の目には明らかでしょう。
ここでは神事や宗教がこの世界に平和をもたらすことはないと再三書いています。実際に平和を達成するのは人々の行為であり、宗教の神がこの世を平和にする事はないのです。これが可能であれば、過去に既に達成されているでしょう。宗教の神に頼る結果が文明の崩壊である事は、これまで繰り返してきた文明の崩壊から明らかです。
犯罪的行為まで神子に実行させることで、実際には何を求めたのでしょうか。ここにあるのは宗教として大きな物にさせない部分と、宗教の持つ悪弊としての問題点を明確にすることでしょう。
現状はこの二つを達成しています。神子達は大きな宗教にはならないように動かされていますし、神の為なら人を犠牲にする犯罪さえも簡単に起こしうると言う、宗教の抱える大きな悪弊も明らかです。この悪弊こそが、他の宗教と争いこれまでの文明を崩壊させてきた一番の原因でしょう。犯罪も殺人も、虐殺も文明の崩壊さえも起こす物なのです。
この世界の永続する未来を守るのは、神事でも宗教でもなく、人々の生活を守る民主主義が基本になるでしょう。自立した人々には、神事や宗教の行う偏った正義や嘘などによる戦争を求める行為が明確に分かるでしょう。永続する未来に反する動きであり、自己の利益の拡大しか求めていないのです。
民主主義こそが、この世界の未来のあり方を考えさせて、未来を守ることにつながるでしょう。ここに基本があるのであり、宗教のエゴでは一部の人しか幸せになれないのです。
宗教とはどの様に付き合えば良いのでしょうか。この答えになる物が今の延長線を考える事で、情報として提供されています。この部分を説明したいと思います。
この世界に存在する二つの勢力の争いが、これまでの文明を滅ぼして来ました。偽善と善に分かれて戦う姿です。この種の争いがなければ憂いのない未来を描けると思いますが、現実はこの争いが前提での未来を検討するしかありません。
沖縄の神事は今の流れでは善の側の未来を助けて、人々が平和を達成する上での導きの役割を果たすでしょう。その結果で大きな宗教にもなり得るのですが、ここに組み込まれている犯罪的行為は、彼らの動きを大きく制約することになります。
この先平和が達成される過程において、偽善の側の宗教は、その教義の嘘を明らかにされることで、大きな変化を経験するでしょう。人々はイエスの隣人愛の教えに戻る部分と、他の寛容な宗教に魅力を感じる部分に分かれると思います。
それでも偽善の側は、新しい宗教を作り上げて、再びこの世界に争いを持ち込もうとするでしょう。平和になった段階ではこの世界の偽善の側の人々を無力化出来ると思いますが、あの世の偽善の側を無力化出来るわけではありません。彼らは再びの争いを目指して、宗教を利用したこの世界への侵入を諦めずに続けるでしょう。
彼らの侵入を今の民主主義では防ぎにくいのです。少なくとも宗教の始まりにおいて、神を名乗る存在達はその悪い部分をほとんど見せることなく、大いなる利益を関係者に提供するからです。イスラム教の始まりを考えると明らかな現実です。自分達に戦争における勝利をもたらし、地域の支配を可能にした教えです。これを悪の教えと拒否出来た人など、アラブの地においては考えられないでしょう。
同様に沖縄の神事も捉えられるのです。神事をしている人々には、その神が善か悪かは分からないです。神もそれを隠して人々の中に入り込むからです。実際に神子にも善と悪は立場で変わるなど、仏教的な事を言わせており、善悪の区別が難しいことを言わせているのです。
民主主義として備えるべきは、ここで偽善の側の人々を政治権力の中から追放しても、改めて宗教を利用して彼らはこの世界へと侵入してくるのです。しかも自分達を偽善の側であると知らせることなどなく、人々に利益を与える存在として登場してくるのです。
今の信教の自由の元では、これを止める事は難しいでしょう。元々偽善の側に都合良く考えられているのが今の法体系なのです。
権力者に紛れている偽善の側の犯罪を監視する為に、署名による司法権行使を求めています。この手法により彼らの犯罪行為に光を当てることが出来るので、権力者の中に巣くう偽善の側の人々をこれから刑務所に送れるでしょう。
同様に宗教にも対処が必要なのでしょう。権力同様に監視する必要があるだけでなく、今の行きすぎた宗教の自由、信教の自由にも、公共の福祉を元に制約を加えるべきでしょう。
宗教の自由は他者を洗脳して利益を奪う自由ではありませんし、他者との争いを正当化する手段でもありません。宗教を利用した紛争などは、利益を求める捏造された権利の主張でしょう。監視と一定の制約をつけなければ、宗教を捏造して特定の場所を自分の場所と正当化して争いを起こすのです。ただの分捕りなのですが、その横取りを宗教を使って自分達の行為を正当化している卑怯な行為なのです。
他者との争いを美化する宗教には隠された目的があるのであり、将来の民主主義の元ではこの争いの種になる行為を監視し、テロを始めとして紛争などの様々な政治的な動きにならない様に法的に守ることが重要になるでしょう。目的は偽善の側の侵入、介入を防ぐことと、早期に発見して対処する事です。
これらに具体的にどの様に対処すべきかは、これからの民主主義が出すべき答えです。少なくとも、野放図に宗教に権利を与えることが、この世界に宗教紛争という争いをもたらすことは明らかでしょう。現状で宗教には監視が必要だと思いますし、隠れて人々の利益を奪う犯罪行為には処罰も必要でしょう。
宗教が納税の義務まで逃れながら、法の欠点を突いて政治力を確保して自分達の利益を求める部分などは、大きな政治的な問題でしょう。税金を免除される根拠がある財務状況を公表してしかるべきですし、他者同様に利益があるなら納税が本来必要です。この免除を政治力に変える部分は誰にも容認出来ないでしょう。社会的責任を全うせずに利益だけを望む姿は、法の下の平等に大きく反する卑怯な行為でしょう。
日本の民主主義における三権分立など成り立っていないと説明してきています。司法権を国民から遠ざけて権力者に都合の良い道具にしてきたのです。西欧の法体系に共通でしょう。そして同時に宗教における信教の自由も、将来の紛争から(核)戦争までを意識して、今の法体系に組み込まれていると考えるべきです。実際にキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の引きおこす紛争に正義を与える物は宗教であり、これを間接的に支える法体系だからです。最後は各国の法律が戦争を容認して破滅を引き起こすのです。
現在の法体系に組み込まれている偽善の側の利益を確保する部分を修正して、彼らの行為を監視することが、今後重要になるでしょう。
沖縄の神事はこの状況までを考えて、大きな宗教にしないことと、犯罪的行為を通じて宗教の持つ悪弊を伝えています。当事者には犯罪的行為と分かっていても、それを強制するだけの支配力があるのです。これでは民主主義の中では成り立たない組織になるでしょう。これをあえてすることで、宗教の負の側面を明確にしているのです。結果として大きな宗教にしないという目的を果たすのです。
彼らがこの先平和になる中で、それなりの評価されるべきだという意見も出て来るでしょう。お釈迦様でさえ口にする言葉である、嘘は方便であり、実際にこの嘘によってこちらの情報の準備を充実させたことも現実です。彼らの犯罪的行為がなければ、地の声も遺跡の情報もここまで準備出来たかは分からないでしょう。
この部分にどの様な答えを出せば良いのか、長らく考えて来ました。今回神という存在の概念が明確になったことで、こちらも新しい答えを準備することが出来ました。今の時点で彼らにとっても意味のある答えになると思うので、今回の記事になっています。
法に触れる彼らの行為は賞賛出来る物ではありません。彼らも心を鬼にして罪を承知でここまでを続けてきたことでしょう。罪は罪であり償いが必要です。この償いがきちんと出来れば、嘘も方便という言葉が生きてくるでしょう。
民主主義としては、彼らの犯罪的行為を褒めることは出来ません。心を鬼にしてでも彼らの神事が今後偽善の側に乗っ取られないことを監視する必要があるのです。イスラムの始まりを思えば、導き手が偽善の側であるとの判断が出来るまで1400年も必要なのです。この様な動きが出来ると言うことも私たちは知っておく必要があるのです。騙すには大きな労力をかければかけるほど、得る物も大きくなるのです。
本来彼らを評価すべきは、あの世の存在達なのです。彼らはその存在達に動かされているのですから、彼らが死後あの世に戻るときには彼らを大きく褒め称えるでしょう。これは間違いないと思います。
この先に核戦争が起きるときには、この世界の平和な未来は失われて、1億年の待ち時間が必要になるでしょう。核戦争後には善の側の宗教間の協力も失われるので、この地の自然の神もエゴの神に戻らざるを得ないでしょう。人としては情報公開を邪魔された部分で彼らの行為を歴史に刻みたいと思いますが、あの世の側としては、彼らにはよくやったと言うねぎらいになるでしょう。良い答えが出せないことは残念ですが、失敗は彼らの責任が全てでもなく、結果は決まっていないのです。
この世界に生きる人としては、彼らが評価されるべきはあの世の存在達に対してであり、この世界の民主主義の存在達に対してではないと明確にしたいと思います。民主主義は宗教を警戒することを怠れないからです。
それでも人々には他者を思いやる心があるので、彼らの結果を出した行為を褒めることは出来るでしょう。彼らが宗教を引退すれば、その宗教を持ち上げる部分が大きく薄れるので、彼らの労をねぎらうことが出来る様になるでしょう。平和に対する功労者です。
多くの人にとって彼らが本来評価されるべき場所があの世であることが理解されれば、彼らにとっても本望でしょう。あの世の存在達の動きでこの世の活動をしてきているからです。この世界では犯罪的行為は認められないのですが、これをやらせたあの世の側ではその評価を正しく出来るでしょう。安心してあの世に帰ることが出来ると思います。死後あの世で少しゆっくりと休めば良いと思いますし、不自由はないでしょう。そして恐らく彼らの将来の輪廻転生では、大きな配慮がなされることになると思います。
直接的な敬意にならない部分は残ると思いますが、大半の人には彼らを温かい目で見ることが出来る様になるでしょう。民主主義にとっては宗教が人々を支配せずに、未来に対して協力協調が出来れば良いのです。この動きを足引く物にはならないでしょう。
彼らの神事は人を導く事は出来ませんし、これまで通りの祈り回りに加えて、あの世の存在達の情報を伝える部分が主な物になるでしょう。偽善の側に落ちている人々の苦しみを救うこともまた、彼らの重要な仕事になると思います。支配の宗教にならなければ良いのであり、加えて大きな宗教になる必要もないのであり、この世界の民主主義の人々と協力協調しながら未来に進んで行けるでしょう。
近い将来に機械であの世の存在達と話せる所まで進めると思っています。こうなるとあの世の声を聞く能力のある人だけが、直接彼らと交流できるだけという制約はなくなります。これも重要な進歩だと考えていますので、こちらの中ではらせんの力の技術を利用する優先順位の高い仕事になっています。
交流が普通になると、偽善の側の介入もまた、難しくなるでしょう。騙すべき人数が増えるだけでなく、価値観の異なる人までも騙し続ける必要が増えるからになります。こちらはその種の存在が、民主主義としての他者を尊重する交流に耐えられない存在である事を明確に出来れば良いのです。
あの世の存在達と民主主義との交流において、将来この機械だけが利用されるようになる可能性もあるのですが、あの世の存在達は人を通じた交流にもこだわりを見せると思っています。人に傅かれたいでしょう。機械も併用してその情報交換の正しさを確認すると思います。
この時以降にも、人々は宗教を残して、あの世のあり方とこの世界の姿を伝える部分を尊重するのではないかと思います。共存と協力協調を重視する形を求めると思えています。
稲生雅之
イオン・アルゲイン