神を名乗る存在への批判は人類の過去への批判だった 6月7日

 シバ神への批判を書くことにしていましたが、宗教の持つ様々な負の側面は、過去の人類の歴史が作り出してきた出来事の積み重ねであると理解出来ました。私たちはまだ、人種や宗教の違いを超えて平和を達成する所まで進めていないので、様々な負の側面が宗教の中に負の側面として残されて現れているのは仕方がないことだと思えるようになりました。神々とは過去の人間の行いの集大成であり、霊の集団でしょう。これから平和と共存を求める人々の行いが、新しい価値観として未来の神々の中に蓄積されてゆくのです。
 こちらは二つの闘争の重要な局面なのに、未だにこちらを騙して教育を続ける理由がよく分かっていませんでした。闘争に勝つことよりも教育の方が重要な理由があるとは思えませんでしたし、敵との騙し合いとしてはこういうやり方が好みなだけだと思えていました。人として受け入れがたい部分も多く、今も戦いに溺れてきた部分の演出と思っています。目的を忘れて繰り返してきた手段に溺れるのです。
 核戦争が始まってしまうと、神事も宗教もこの世界を救うことが出来ないし、平和は戻らないと考えています。今は協力出来る善の側の宗教も、生き残りをかけて争いをする姿にしか戻れないでしょう。偽善の側はこの協力関係を崩すことが大きな目的での核戦争です。その後の力の支配に都合の良い準備で彼らは進んでいる所だと思います。
 人類に自覚を促す手法で善の側は核戦争を避ける為の準備をしてきたと思います。ここにもう一つ、神々という概念に対する理解を加えることが必要だったので、未だにこちらに嫌がらせを続ける教育が続けられた様でした。

 神を名乗る存在への批判には、彼らの使う神子がこちらに向けている犯罪的行為を紹介して止めさせる目的も含んでいました。こちらは税金も保険料も支払いが出来なくなるので、保険の資格を失う所です。ここまでやる必要があるのか彼らに問う所でした。自分達は過去保険に命を救われているにもかかわらず、他者がその保険を失う部分には全くその配慮が出来ないのです。宗教が自分の生き残りの為に他者を生け贄にする部分でもあり、見方によっては非人間的な行為でしょう。もちろん生け贄の宗教という宗教の持つ悪弊を明確にする為にやらされている部分でもあるのですが、これをどこまで継続出来るかは彼らが人々の理解を失う部分に直結しているでしょう。
 現状は苫小牧の情報公開の記事が途中まで書けただけで、資金がないので具体的に情報を伝えて説明する動きなど出来ないのです。これでどうやって被害を減らせば良いのか、ばかげたやり方であると感じる所になっています。
 こちらは資金繰りをつけたいのであり、犯罪的行為を犯しながらも法律を知らない彼らに解決策の落とし所を伝える目的もありました。これに対して、苫小牧の記事が書けたのでシバ神への批判記事を書こうとした所、日本でのテロのリスクが発生して、関連する神事が必要になったと彼らは流しています。7~8月に日本の各地の空港でのイスラムテロのリスクを警告する物でした。

 テロのリスクはイギリスのテロなどヨーロッパの状況を考えれば誰にも分かることであり、こちらの目には始めからこの計画で動いていた事など明らかです。彼らはここで自分達の神事を変える事態が起きたとしていますが、あの世側は予定通りに動いているだけです。この動きを敵に悟らせたくなかっただけなのです。こう考えないと辻褄が合わないのが未来の計画の流れを知る部分には含まれています。間違っても偶発事態ではなく、リスク回避の準備を悟らせない為の工夫でしかないでしょう。
 こちらは彼らを批判する所でしたので、こうなると影響なく批判する必要が出てきます。個人的な犯罪的行為を書かれれば、理由があるにしても状況次第で一時的に苦しい状況になる可能性があったでしょう。
 こちらは核戦争が起きる場合には、彼らが邪魔したことで人間としての平和を求める動きが邪魔されたと批判する所です。平和が失われてから批判しても得る物は少ないのですが、神事や宗教がこの世界を救わないという現実に向きあう部分を、あの世の歴史の中にはっきりと残しておきたいと思っています。過去彼らに出来なかった共存が破壊を呼んで繰り返されるのです。
 今の状況では、こちらの批判でこのテロを防ぐ動きが出来なかったとあとから言われて、平和を作れなかったのはこちらの批判のせいだと言い訳出来るようになっています。
 テロが起きるなら今は足引くような動きは出来なくなる所です。行動には優先順位があるので、まずはテロを防ぐ方が優先でしょう。資金繰りの付け方には他にも方法があるのであり、こちらにしわ寄せをして間接的に彼らの神子の動きを守るという卑怯な手段ですが、これを実際にタイミングを調整してやってみせる所に意味があるのでした。犯罪だけでなく嘘に続いて卑怯な行いなど、およそ善の側とは思えない行為を重ねることで、敵の予想を外せている部分は明らかでしょう。彼らの干渉をある程度排除出来ています。

 日本での7~8月のイスラムテロのリスクを公表した時には、同時に以下の啓示も流しています。

争いごとの中には 何があるのか
不条理と おかしなまでの 屁理屈と
何も見ない理屈と 自分勝手な妄想と
平和とは何であるのか
穏やかに 緩やかに 人々が生きゆく
いや 命達が生きゆく 未来 暮らし 生活 
一人ひとりが 安心して 生きてゆくことが出来るように
それは 人 一人ひとりが 創り続けゆくことの出来る 未来であるのだ
善き流れは 人の意識から生まれてくる
ささくれだつ世の中は 人の意識もまた そのような状況の 現われである
穏やかな流れを 一人ひとりが意識 続け 
善き流れへと進めるように 一人ひとりが 努めゆくことこそ 未来の 一つの 礫(つぶて)となりゆく

 こちらの元々の予定では、過去の宗教が争いを止められず、この世界を何度も崩壊させてきた部分を批判する所でした。この争いの原因を不条理から屁理屈、妄想とまで口にしているのです。神を名乗りながらもこの様な物だったと言っていることと同じなのでした。ただ愚かなのですが、生存を脅かされてこの状況に追い込まれたと言う事でしょう。私たち人間と変わらない愚かな姿が、ここには現れています。
 ここにはもう一つ意味が重ねてあり、こちらと神子との争いでも同様であると言いたいのです。自分達で必要だからと準備した犯罪的行為であり、もう継続する必要がないのにもかかわらず、まだ続けたいと間接的に告げる物なのです。
 さすがにここまでされると、この行為のどこに重要な意味があるのかを考えざるを得なくなりました。敵との争いよりも重要な教育をまだ続けたいと言っている事になるのです。

 核戦争を避ける為に、善の側の宗教が協力し合える2018318までの時間で、様々な情報の公開が必要です。先史文明の人々が準備した情報を公開するだけでなく、軍産議会複合体と中国共産党、北朝鮮の指導部とバチカンの内部にある偽善の側の動きにも情報公開による光を当てることが重要です。
 これを行うのは人々の動きであり、神事や宗教がこの動きを直接する事はないのです。これを助ける為に彼らに何が出来るかになる所でしょう。
 人々への自覚を促すだけでは不十分と言っている理由がどこにあるのか、ここしばらく考えさせられた神の仕組みで考える事となりました。神とは何なのか、未だに答えが曖昧だったからでした。

 多くの人にはまだSFにしか聞こえていないと思いますが、この先平和になって宇宙に様々な種類の遺伝子が拡がる時、そこには平和な命の循環を司る神を名乗る存在が生まれてきます。新しい神々は他者との共存と平和を守る神々になると期待できるところです。
 今偽善の側に立つコーカソイドの遺伝子を持つ人々ですが、どうしてこうなっているのかを改めて考えてみました。彼らの行く末がどの様な神々になれるかを、もう少し具体的に考えてみたのです。
 過去の争いが今の善と偽善の区分を作っていると考えると、そこには情け容赦のない争いが存在し、力の支配における無慈悲な殺戮が繰り返されてきたことでしょう。ヒンズー教だけを批判するわけではなく、他の宗教でも力に頼ると同様だと思います。
 結果を憂うことなく行為に没頭すれば、虐殺も可能でしょう。ここで殺されると、殺された側は同様な手法でやり返すでしょう。これが偽善の側の悪意の起こりであると考えると、旧約聖書に含まれている多くの憎悪の言葉が、その言葉が生まれた理由に過去の無慈悲な行為による悲しみと苦しみを感じさせています。
 ヒンズー教から仏教が生まれたという説明は一般的な物でなされています。慈悲を持つ部分と階級支配を拒否する部分であり、人々が進歩した部分でしょう。ヒンズー教にも影響は戻り、今はその部分が減っている所だと思います。
 コーカソイドの人々は、イエスの隣人愛を生み出したにもかかわらず、これを実質的には否定して神の支配の教えを広めています。かつて隣人愛がコーカソイドにあったにもかかわらず、これを虐殺して失わせたのであれば、今の状況に納得が出来ると思えました。彼らは今も心の中では、隣人愛を求めている部分を多分に含んでいるのでしょう。

 この先の先史文明の情報公開が進んだ時に、カトリックとイスラムの一神教が持つ嘘の教義が明らかになります。神を名乗る存在は様々に存在し、先史文明も存在しており、あの世の現実と歴史を捏造する教えでした。
 コーカソイドの人々はイエスの教えを始まりの当時は求めていたのであり、愛の教えでした。神を求めて来た彼らが隣人愛の教えにどこまで満足出来るのか、進んでゆかないと分からない部分ですが、平和になる中であれば愛の教えは人々の信頼を広げる手段になり得るでしょう。宗教になる必要のない、人道を説く教えです。
 こうなると考えると、今の偽善の神々の中にある憎悪の思いは、新しく生まれる隣人愛を重視する生き方の中で愛を支える経験として生きることになってゆくと思います。
 過去の歴史として愛を踏みにじられると残虐になる事を刻んで残しながらも、それを越えてゆく結果を出すことで、さらに深い隣人愛を達成出来るのでしょう。彼らも私たちも憎悪を越えて行けるのです。カトリックにもイスラムにも、ユダヤ教にも共通でした。

 人の魂が輪廻転生して、あの世とこの世の経験を繰り返しているのがこの世界の現実です。輪廻転生は多くの宗教の語る所であり、日本では歴史書としてのホツマツタエにも書かれています。
 輪廻転生の結果、あの世にはたくさんの経験が蓄積しているのでしょう。過去の経験です。良いことも悪いことも全て、出身星とその民族の遺伝子に応じて保存されているのでしょう。この経験こそが人の神として振る舞うあの世の存在の核だと思えました。
 人の神々が持つ物は、人と同じ思考能力の集合体である事に加えて、過去の経験が一通り詰まっているのでしょう。未来を考えることも私たち同様に出来ると思いますが、そこには私たちの求めている新しい世界の経験も価値観も、まだ存在しないのです。予想出来る物があるのであり、彼らもそれを求める事が出来るというレベルです。
 新しい価値観は、人間がこの世界で今作っているのです。神が言うからそれをやるのではなく、人々は新しい価値観を創る為に自ら選んで人に生まれて、この価値を現実の世界で作っているのです。神々が妄想で作り上げる物ではなく、現実の世界の動きで人が作る物が将来の神々の経験になり、その核になるのでしょう。私たちが死後あの世に持ち帰る様々な経験が、神々を支える経験の核になるのです。平和を支える考えの核になるのでしょう。
 過去の文明では達成出来ていなかった共存と平和です。この価値観を今の神々が持たないことは当然でした。彼らがそれを口に出来ても、それは夢のたぐいです。現実化出来るかは分からない物であり、今私たちがそれを現実化すべく努力しているのです。平和を作り上げるのは神事でも、宗教でもありません。人々の平和を求める心であり、新しい価値観を作り上げようと努力する結果で得られる物なのです。彼らが平和になると口にするから平和になると言う奇跡のような物ではあり得ないのです。神を名乗る存在達は多少不思議な力を見せることが出来る程度であり、新しい未来を作り上げるのは、こちらの世界の人間の行動でした。人間が彼らに支配されても、こちらの世界の有様と経験に根ざした良い未来は作れないでしょう。過去の現実です。

 これまでは神という概念をおぼろげながら想像して来ており、宗教の影響を受けた部分で真実を知る事が出来ないようにされていたと思います。神々とは大半が人間の意識の集合体であり、過去の経験を核に持つ存在です。新しい事を考えることは出来るのですが、それをこの地で実行出来るのは人間でしかないのです。
 神を名乗ってこちらに来ても、良い結果を出せなかったことは歴史が証明しています。神として優秀なのは一人の人ではなく、集合体としての衆知のなせる技でしょう。
 人は神に従うべき物という概念が強かったのですが、彼らとは協力協調する物であり、一方的に従えば良いという物ではないと今まで以上に明確に理解出来ました。自立が重要であると説いてきましたが、その本質がここにあったのです。この世界の未来を作るのはこの世界の人々であり、それを支えることが出来るのが、あの世の神を名乗る存在達でした。彼らだけが未来を作るのではなく、人々と協力することで平和な未来を作って行けるのでしょう。
 この世界では人として求める未来のために他者と協力し合い、あの世では魂として神という概念で捉えられる存在に私たちは協力してるのでしょう。あの世に戻れば誰もが広義の神の一部でしょう。もちろん優秀な人々がこちらの世界への戦法を考えると思いますが、個人個人の経験は今後の未来を作る為に、神という存在の核の中に経験の蓄積として取り込まれてゆくと思います。
 分かりにくいかも知れませんが、今の争いを戦場に例えることが出来ます。人は戦いの前線で命をかけて争う兵士であり、命のリスクに直面しながら平和を達成する方向を考えて行動しています。神々は後方にあって命のリスクなど持つことはなく、戦況を見ながら戦いの行方を左右する戦法を教えているのです。
 戦場の兵士が、戦法に関して不満を持つのは普通です。安全な場所に身を置いて自分はリスクをとることなく兵士の命を危険にさらすのです。時に犠牲も覚悟して攻撃を行うのであり、犠牲にされる兵士は大きな不満を持つのです。今の自分が彼らのやり方に大きな不満を持つのは当然であると理解出来ました。現状はまさにこの通りだと思います。

 さすがにここまでを根拠なく書く事はありません。今回もホツマツタエに登場願います。以前にも紹介した事のあるヤマトタケの言葉です。

人は神 神は人なり 名も誉(ほまれ) 道立つ法(のり)の
神は人 人素直(すなお)にて ホツマ(秀真)行く 真(まこと)神なり

 現代語にすると、「人は本来神であり、また神は人である。人の道となる生き方を教え示した者が、名を上げ神と崇められる。人は素直に、秀でた真のホツマに従えば、まことの神の道を行くことになる。」となるかと思います。拙訳です。

 この言葉を別記事に載せた時には、この言葉を人としての自立と、輪廻転生を説明する事に使っていました。人が神として神社に祀られることはよくあるので、人が神という表現はこの事を指していると考えて来ました。
 今になって考えると、本当に良く考えられた言葉だと思います。人は本来神であり、また神は人である。と言う部分が真実味を持っていたことがやっと理解出来ました。神社に祀られたり、神の名前を頂く事ではなく、あの世では実際に神としての役割を果たすのでしょう。そして必要なら、また人としてこちらの世界にやって来て、役目を果たして帰るのです。
 ホツマツタエは先史文明の時代の歴史書であり、当時の宗教観が残っていて当然ですし、今よりも正しく当時の状況を伝えているでしょう。そう考えるとこの文章の大切さが理解出来るのです。
 宗教にしてもオカルトにしても、輪廻転生を繰り返して多くを学んで悟りを開くと、解脱してこの世界に再び来る事がなくなって神になると言う表現をします。ここにある実態は主に修行で悟りを開く物であり、現実の社会を豊かにしたり平和にする事ではなく、価値観の異なる他者と共存する事などほとんど含まれていないのです。宗教の伝えるそれはこの世界の生や命を重視しないことであり、オカルトも含めて社会的責任を重視しない物が多いでしょう。
 ここにあるのは人間の神としてのこの世界の経験に基づく神でもなく、共存と平和というこの世界のあるべき姿を求める神でもないでしょう。社会の進歩を求めず問題に向きあわない姿に見えるのです。社会的な存在でない神にどの様な役割があるのでしょうか。

 今の神々は過去自分達に出来なかった共存と平和を口にしていますが、それは彼らの求める未来であり、過去自分達に出来なかった事を今の人々が必要としているからこそでしょう。
 正直な所、これを口にするなら後方に隠れることなく自分でここに来てやれと心の中で感じていましたが、彼らは単にその役割分担を全うしているのでした。それ以上ではないのであり、この世界に来ているたくさんの人が共存と平和を望んで実行しようとしているのです。
 今向こうに残っている人々は、こちらに来るのが苦しいのではなく、こちらに今いる人のサポートが得意だからでしょう。私も死ねば向こうに戻るのであり、その時は誰かの守護霊になってこちらの人を導く仕事をするかも知れないという話です。適材適所に加えて交代制など様々でしょう。彼らに向かってこちらに来てやれと言うのは的外れでした。
 宗教の神は人間を洗脳して支配するには便利な道具になるのですが、新しい価値観をこちらの世界に生み出す部分は上手く機能してこなかったのです。
 過去この世界では信じる神が異なると争いしか生み出せなかったのでした。この問題を宗教の洗脳的な支配の仕組みを手放すことで解決し、他者と平和に共存する世界を生み出せると期待して今、私たちはこの世界で努力を重ねているのでしょう。善の側の神々はその仕事を支える役割を果たしている所です。

 こちらの準備した情報が広まる上で、神の概念がどういう物であり、現状がどの様になっているのかを説明する事が必要で重要だったのでしょう。宗教の支配を手放す部分にどの様な意味があるのか、そして神に対する人の自立がどうして重要なのかが理解されて、平和に向かって異なる民族、異なる宗教が共存が出来る様にする為だったのでしょう。
 神々とは過去の人間の行いの集大成であり、未来の予想は出来ても未来を作り新しい価値観を作り上げるのは人間にしか出来ない行いです。過去の文明で達成出来なかった共存と平和は、今に生きる私達である人間にしか実現出来ないのです。
 重要な追加部分に理解は出来ましたが、これを広める資金もなくこの先どの様に流れるのか次第でもあります。過去には暗号解析ソフトの開発資金で行き詰まったこともあるのですが、奇跡的に300万円も借りることが出来て先に進んでいるのは現実です。
 この様な例があるので今回こちらが神子を批判する記事を書いても、彼らの神事をつないでゆく資金面では心配がいらないとこちらには判断が出来るのです。そのつもりもあって進めてきたのですが、彼らには先手を打たれて批判が出来なくされています。卑怯なやり方での再びのこん畜生ですが、彼らを守る必要があったのでしょう。テロを止める必要があるのはただのおっさんとして尊重します。
 2017513では嘘を流した事と引き替えに長岡のGPS変動記事を書かせて、2017526では嘘の引き替えに地震列を見せることで、中越と中越沖の地震のメカニズムを間接的に教えています。
 今回はこちらの批判を止める事で、神の概念についての理解を深めさせています。宗教の問題である洗脳的な支配を止める為の準備でした。

 続きは現状の苫小牧のCO2貯留実験の問題に向きあうことです。改めて苫小牧の関連を遺跡の組み込みと6月5日の地震の組み込みを紹介する記事で行う予定です。
 2017617から2017624までの間を6月5日の硫黄島近海の地震M5.0が指摘しており、組み込み先は苫小牧の実験施設ではなく樽前山です。橿原神宮と富士山宝永火口に1142kmを向ける中で橿原神宮が2017617を教えて、船橋が2017624を指摘しています。
 このスケジュールで単純に物事が動くのではなく、続きの地震の応酬があると思います。一々紹介することはしない予定でしたが、樽前山の動きが苫小牧沖と石狩低地東縁断層帯の断層地震を引きおこす可能性を伝える部分は、恐らく2017706まで書かされることになるでしょう。その先の2017721を外すまで引きずらせるかも知れませんが、これは状況次第でしょう。
 2017706に向かう流れの中で、樽前山を多少動かすなどには可能性があるでしょう。断層の地震を止め続ける事にもいずれ限界が来ます。大きな災害にならないように出来る手前に立っています。

 何をどの様の動かして、ここまで嘘で貶めてきた地の声の信頼を回復させるのかはまだ分かりません。それでも情報公開を進めなければ核戦争になるだけであり、北朝鮮も核実験とミサイル発射を望んでいることでしょう。敵を欺くのではなかった愚かなやり方を変える時まで、あと少しの時間だと思います。人々を繰り返し騙した分だけ変化を連続させる可能性がありますので、自然災害には注意が必要になりそうです。
 今回は最終的には核戦争を回避する為の動きです。その分情け容赦なく動く部分があるでしょう。それ故に注意が必要な状況だと思います。
 ぎりぎりを我慢して続けていますが、4月末でも大変だったのにあれから1ヶ月以上です。保険も税金も支払えずやりくりが続かない状況です。寄付でも借用でも結構ですので、人としての活動を支えて頂ければ幸いです。人間の行動が未来を作るのです。

稲生雅之
イオン・アルゲイン