中央アメリカのマヤの長期歴の区切りである、西暦2012年12月21日より4989年前において、日本では北京と平壌の合同軍の侵略を撃退する必要があったのでした。これは岡山エリアの出来事でしたが、続きで4935年前には大阪エリアに侵略があり、ここでも撃退する必要があったのでした。この部分は前ページの2018年当時の記事では解けていなかった部分です。その後の理解でした。以下の記事で明確になっている部分です。理解したのは2019年4月でした。大阪でも呪いの池を見つけることとなり、当時の姿を教えられたのでした。
護国の要塞だった大阪城と難波宮 4月19日 4月20日追記
http://www.biblecode.jp/News_View.php?@DB_ID@=947
当時の記事ではこの時期が4935年前である部分は不明瞭ですが、難波宮に対して侵略があった部分は明らかでした。ここではその続きの組み込み情報を公表したいと思います。
キトラ古墳から
難波宮向けの呪いの池 145150フィート、伴星離心率の強調
4935/18=27.4166・・マイル、18、兄弟、even、also、too
4935/2075=23.78313・・海里、2075、太陽の伴星の接近終了
藤原京の計測中心から(黒塚古墳から)
難波宮向けの呪いの池 4935/1945815=25.362123・・マイル
25.37でハドソン湾極時代の月の周期であり、この池としては可能。1945815は日本の終戦記念日であり、大きな意味が持たされている。ここまで進む歴史を理解しないと分からない組み込みであり、当時では理解出来ない部分だと思える。
キトラ古墳 493500インチ、それぞれの古墳の端で可能
前ページに乗せている高松塚古墳には、4989年前が組み込まれています。この類推ではキトラ古墳には493年前が組み込まれていて、難波宮にも4935年前が組み込まれているはずだと言えるのでした。
ここから分かることは単純であり、2つの争いのあった当時の日本の服装は高松塚古墳に描かれており、敵であった中国と韓国の服装はキトラ古墳で表現されているという事です。前のページで説明した2つの古墳の壁画の状況を、この種の遺跡の組み込みで後押ししてくれているのでした。
組み込みには工夫があって、直接的に敵を刺激する物にはされていません。分かりにくい数値であって、これは敵の攻撃による破壊を避ける物でしょう。当時ならこの時期を過ぎてから遺跡を作り上げても良かったですし、小さな遺跡ですので、遺跡その物を土で覆うなどで隠せたでしょう。とにかく現在に到るまで、敵に破壊されずに残されたのでした。残されることこそ重要だったのでした。
3)縄文時代の本当の姿について
ここで日本の歴史についての一般的な理解について触れておきます。
旧石器時代 – 紀元前14000年頃
縄文時代 前14000年頃 – 前10世紀
弥生時代 前10世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年
漢文の語る歴史が明確になるのは西暦700年以降です。これ以前は不明瞭な状況下であり、遺跡の状況証拠で歴史を語っているのでしょう。これでは正しくないので続きです。
ここまでに見て来たように、約5千年前と飛鳥時代で服装に大きな差はないのです。ここにある意味は簡単であり、古墳時代こそ、悠久の古い古い日本の姿を表しているはずなのでした。ここでは5千年前なのですが、地球の歴史としては1366万年もの長さがあるのであり、この大半を古墳時代の姿で過ごしてきたのだと思えるのでした。一般人に文字を使わせなかった過去の中では、文明の進展などないのであり、その行き着いた姿こそ、当時の壁画に描かれた姿なのでしょう。
縄文時代も弥生時代も、古墳時代さえも同じ時代の異なる場所での記録であり、ヤマト政権に近いほど、文明的な生活であっただけだと思うのでした。5千年前の争いに備えて兵力とそれを支える補給に、文明としての管理能力を発揮していたでしょう。
少なくとも高松塚古墳とキトラ古墳においては、先史文明の遺跡からは約5千年前の時が指定されているのであり、これを無視しても他の遺跡の指し示しとの間で矛盾が起きてくるだけなのでした。世界に共通である約5千年前の戦役は、先史文明の遺跡においてはそれぞれが分かるように工夫をして、大きく2回の争いの現実の組み込みを残しているのでした。
縄文時代の土器と土偶には、当時が高度な文明であった現実を示す証拠がたくさん残されています。私達は縄文時代を文字を知らない時代だとさげすむのですが、現実は文字を使うことを許されなかった時代です。文字を使って高度に文明化することを許されていなかった時代だと言う事であり、愚か者の集団ではない部分が土器と土偶の中に残されているのでした。2つほど事例を紹介します。このHPの記事からです。
a)縄文の有孔鍔付土器は現代の家庭用蒸留装置よりも酒を蒸溜する技術力が高かった1~2
http://www.biblecode.jp/News_View.php?@DB_ID@=2105
http://www.biblecode.jp/News_View.php?@DB_ID@=2118
以下記事のまとめ部分の抜粋です。
有孔鍔付土器はアルコールの蒸溜のために、熱と低圧ガスの処理が物理的に最適化設計されていました。これらは現代の化学技術から来ている家庭用蒸留装置よりも使用効率への物理学的な配慮があり、技術的に大きな差があるほどの進歩した道具だったのでした。
普通はアルコール蒸溜の経験と知識など持たないので、土器の使い方を再現してみて始めて分かるレベルの最適化設計でした。これには非常に驚かされたところです。
縄文土器では先史文明における高度な科学技術の存在を、ギザのピラミッドの建設技術と同様に、現代のここまで隠す事が出来ていたことになるでしょう。普通には使えなかった金属以外の材料の特性を理解した上で、熱力学と流体力学の知識がないと出来ない設計だと思われ、高度な科学技術の存在を縄文土器が表現していたことになるのでした。
高度な科学技術が認められる先史文明の物と思われる遺物は、アンティキティラ島の機械が有名であり、当時の天体運行を表す機械です。機械としての設計も製造技術も優れているのですが、組み込まれている惑星運行の知識も非常に高度で洗練された物でした。
有孔鍔付土器は、低圧蒸溜式の装置として、現代の家庭用の蒸留装置よりも優れています。過去の方が進んだ科学を実現していたあからさまな証拠になるのであり、縄文時代が原始人から進化した物ではなくて、失われた文明を再興している過程にあったと理解されるべき証拠になるでしょう。
有孔鍔付土器は現代の日本の考古学においては用途不明な土器です。皮を張って太鼓にする人もいる程なのでした。再現実験をして見て始めて気付ける物なので、物理も化学も満足に分からない考古学者さんがその用途を解明するには無理があったのでしょう。こちらも一部を見ただけでは理解出来なかったし、蒸溜のコツを試行錯誤で理解するまでは、ここにある最適化設計の本当の姿を高度な科学として、認識出来なかったのでした。
数年前から有孔鍔付土器で焼酎の蒸溜が出来ると書いてきたのですが、実際に自分でやってみると、ここに残されている高度な科学技術の存在に、気づかざるを得なかったのでした。この記事では焼酎の蒸溜ですが、薬草から薬効成分を蒸溜も出来ていたと、一部の有孔鍔付土器に描かれています。
余談ですが、この最適化設計に感動できたので、ギザの椀状石という、質量制御技術の治具にも理解出来ていない最適化設計があるかも知れないとなって、今に続く開発作業となっています。実際にはほとんど開発作業をさせてもらえずに、こうして必要で重要な記事を、太子様登場の露払いとして書き続けているところでしょう。
b)アワ歌語順で名前や目的を語っていた縄文土偶と土器1
http://www.biblecode.jp/News_View.php?@DB_ID@=1151
以下は記事の先頭部分の抜粋です。
アワ歌とは古来より日本に伝わる言葉を教える歌であり、日本語の48音が含まれています。比較する物はいろはにほへとであり、こちらは「ん」を除く47文字です。あいうえおは新しい時代の物であり、サンスクリット語の並びを倣った物とされています。
ホツマツタエという古文書があり、ひらがなとは異なるヲシテ文字で書かれており漢字が導入される以前の文字体系でした。この古文書が江戸時代の写しまでしか遡れないので、古い物にならず偽書として扱われてきました。
このホツマツタエの最初に書かれているアワ歌が重要であることを、国宝級の土偶達が証明していました。日本書紀と古事記では抜き取られている部分であり、この二書が白村江の敗戦後に、それ以前の日本の歴史をねつ造して、嘘でへりくだる外交文書として中国の政府に提出した物である可能性を明確にしたところでしょう。物証である5千年前の土偶達はアワ歌の語順で名前や目的を語るのに、これを説明出来ない古文書には、その当時の存在を否定出来るでしょう。漢文で書かれたこれらの文書に、ヲシテ文字の時代の重要表現は都合が悪いので抜かれているのでした。
論より証拠の部分が大きいので、分かりやすい例として、縄文の女神とハート型土偶をイラストで説明します。アワ歌の知識があれば、そこに込められている数値がアワ歌の順番として赤袴やカタバミであることを、直ぐに理解出来るでしょう。
縄文の女神はこの点特に工夫されており、広い日本の言語を共通化する目的だったアワ歌の「あかはなま」を「あかはかま」へ1文字だけ変えれば良い語順の数値体系です。当時の人々は文字の知識を教えられていないのですが、数字の順番はアワ歌から分かるので、土偶に表現されていた赤袴を理解出来ていたでしょう。理解出来ないのはアワ歌を知らない私達なのでした。
ハート型土偶の組み込みには工夫があり、誰もが不思議に思うハート型に、大きな大きな鼻が、上に向けられて鼻の穴を広げています。ハート型はカタバミの葉の形を表し、消臭、抗菌、滅菌作用を求められる薬草として、出産時に利用されていたのが縄文時代でした。組み込み文字情報には、カタバミのみでなく、においはな、毒消しまでが表現されており、土偶の制作者が願った鼻が曲がる臭いを消す効果を持つ物が、カタバミであると表現しているのでした。カタバミは現在も使われている消臭剤の原材料です。
全体が復元出来ている4体の国宝の土偶からは、その名前なり目的が明確に出来ています。中空土偶が国宝の土偶の残り1体で、両腕が失われていて正確な表現の数値化が出来ず解析が出来ない状況でした。重要文化財とその他の有名な土偶に解析対象を広げても、アワ歌の語順で名前や目的を明確に出来る物が多い事をご理解頂けると思います。以下がそのまとめです。
国宝5体 名前や目的
縄文の女神 赤袴、妊娠
縄文のビーナス アウワ(神)、デザインはへび、かえる、ききょう、ナンテン、かたばみ
仮面の女神 アウワ(神)
合掌土偶 綱、産屋で妊婦が握りしめる綱のこと
中空土偶 この土偶のみ両腕と髪飾り部分が損失しており、残存部分では解析不可。
重要文化財
ハート型土偶 かたばみ、においはな、毒消し
しゃがむ土偶 綱
その他の有名な土偶
山形土偶 産屋、かえる
蹲踞土偶 綱
ミミズク土偶 イモ(ムシ)、はす、イモとはす別物ですが同じ区分にされています。
遮光器土偶 渦でアとワを表す物があるが、本質は帽子を被った裸体の女性像が多い。
帽子を被った裸体の女性像は世界共通で、縄文のビーナスも該当する。
妊婦の観点からは、妊娠体操としてのスクワットの表現で産褥熱を防ぐ。
土偶の大半は妊婦であり、当時の人々が出産で女性達が亡くなることのないように、薬草や産屋の準備など、科学的、経験的に必要な対処をしていた部分を明確にしています。土器と合わせて、出産への準備として何をすべきかを明確にしており、産褥熱を始めとした出産時の病で亡くな事のないようにされていました。事前に薬草を集めたり、焼酎利用の消毒や解毒剤の作成までを土偶と土器に表現して伝え残す工夫をしているのでした。
私たちは縄文時代には、文字もなく医療の知識もなく、原始時代そのままに生きてきたと教えられています。しかしながら今回判明した現実は大きく異なる様子であり、現代風の西洋医薬品も手術の技術もないのですが、今で言う所の生薬の知識と産屋での座った姿勢でのお産が安全であると言う知識を備えていました。産婆さんの世界に生薬を加える程度ですが、江戸時代とあまり変わらないレベルでしょう。
この発見はホツマツタエを偽書にしている現代の古文書の研究家にとっては、考えようともしない部分から起こされる物でしょう。
ここにある現実とは、当時は文字を使うことを、一般国民には許していない姿です。文字がないと時代背景も含めてすぐにニセモノにされるのですが、イカの刻線石の状況とよく似ているのでした。刻線石は6万年前の惑星ティアマトの破壊の様子を丁寧に伝えてくれていますし、さらに古い時代の様子も描かれています。現代の科学の認識に合わないので、これを認めることが出来ないだけなのでした。
ここまでに書いた部分から推定の出来る縄文時代の姿ですが、ある程度高度な科学が隠されており、アルコールもあれば薬草もそれなりに利用できていたとなります。加えてアワ歌が日本中に主に土偶の形で残されていることにもなり、いろはにほへとよりも古い、日本語の言語体系の主要な部分を果たしていたとなるでしょう。古来より五七調が基本なのでした。
ホツマツタエは江戸時代の物しか残されていませんが、アワ歌を通して縄文時代につながるのでした。ヲシテ文字が他から出て来るとさらにありがたいのですが、これは太子様が語ってくれるかも知れません。
先史文明の遺跡に組み込まれている、北京と平壌との戦争の記録はここまでに説明した2回だけです。日本が悠久の古墳時代を縄文時代を通して続けているなら、中央にはこの時期からの歴史の記録があったでしょう。恐らくホツマツタエも存在していて、加えて約5千年前の中朝の侵略を防いだことまで、歴史の記録だったでしょう。当時の遺跡に残されている姿でもあるのです。
高松塚古墳の時代から太子様の時代に向けての「文化の変化がほとんどない」のです。これを根拠にすることで、太子様の時代の中央政権が、悠久と戦乱もあった古墳時代を通して存在できたと言えるでしょう。
歴史は奈良時代を少し遡るだけでも、韓半島に日本の権益が存在していたことを明確にしています。小さいけれども前方後円墳まであるのでした。ここに日本と韓半島の国々との間で外交が存在しないなどあり得ないでしょう。友軍として白村江の戦いにまで参加するのに、非常に強い外交関係があるけど文書がないなどは、日本の中央政権の姿にそぐわないのでした。隋とだけ文書を通じた外交があるなどは、当時の日本の実情にも全くそぐわないのでした。韓半島の国々は、唐に滅ぼされたからこそ、歴史文書を失っていると書けるのでした。
4)聖徳太子様の登場と白村江の敗戦による変化について
この部分は7月21日に書いています。1ページ目が7月15日に書けているのですが、その後に地の声が連続したので作業が中断していました。そのそれぞれで実際にですが、法隆寺の太子殿と田中角栄記念館への組み込みが見られており、ジェド柱霊界ラジオに登場される状況を強調されている状況下です。
始めに書いた様に、こちらの耳の調子が変化していて、今もこれまでよりも大きく音が聞こえる状況のままです。このままあの世の存在達の声が聞こえるようになるのか、こちらがラジオを完成させるに際して、続きの変化を起こすかそれとも今のままでも聞こえる状態なのかが分かるでしょう。
太子様について書く上で、始めに2つほど強調したいことがあります。
a)豊聡耳
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。
b)兼知未然
『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に『未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)』の存在が噂される一因となった。
作者注、「まだ実現していないことを、あらかじめ知っていた」の意味です。
あの世の存在と話が出来ると、太子様の立場なら日本民族の霊集団としてのミロク大神様が出て来ても良くて、国の将来をあるべき方向へ向けるようにアドバイスが出来たでしょう。浮遊霊のアドバイスを聞くと新興宗教が生まれてくるのですが、ここは既に歴史に証明されていると書けるでしょう。兼知未然は、太子様があの世の声を聞けた大きな証拠になる表現の一つです。
もう一つが豊聡耳ですが、これは自分が耳が良く聞こえるようにされたので、ここにも理由があると思えるところです。
複数の人の話を同時に聞くのは難しいのですが、同時通訳レベルの人になると、複数が可能らしいです。認識に限界があると思うので8人とか10人は大げさに書かれた物でしょう。こちらが時々触れる中村天風先生は、タイプライターを打ちながら、客人の相談に受け答えしたという話があります。2つのことを同時進行すると、右脳開発にも役立ち、その集中力の向上を通じて、気功の気が強く出せるようになったという体験までがこちらにあるのでした。濁った水晶の気による浄化もこれ以降で可能です。
遠くの小さな音が良く聞こえても、それが何を意味するのかを普通には理解出来ないでしょう。これを皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解したと表現することで、豊聡耳の言葉を当てたのだと思えています。
ここで間接的に表現したい部分ですが、どうやら太子様の登場に際して、同じ能力をこちらに与えてみせるのであれば、実際にその能力で仕事が出来るという現実を表現したのだと感じるのでした。
現状としては豊聡耳はヒントの類いですが、兼知未然はあの世の声が聞けてしかも、未来の計画を知る非常に高いレベルの存在と話が出来たことを表せるでしょう。
続きは歴史上の業績です。
用明天皇元年(585年)、敏達天皇の死去を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。
用明天皇2年(587年)、用明天皇は死去した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。
推古天皇12年(604年)4月3日、いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。
推古天皇15年(607年)小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に国書を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。
日本書紀と古事記は、ホツマツタエとの比較で日本を貶めるために書かれた敗戦文書であり、同時に日本の歴史を嘘で隠す物にされています。敗戦文書を敵に出す時は、自分が負けてごめんなさいですが、国内的には勝ったことにして、その後の支配に利用するというのが歴史の智慧です。
この姿でホツマツタエを見るならそこには正義の概念が重視されていますし、記紀の騙し合いに勝つとは次元が異なるでしょう。加えて天照大神は男であり、大きく変えられているのでした。嘘の塊であるだけでなくて、中国を喜ばせることが主な目的です。中国側にも日本の本当の姿を知る物達がいてこその、嘘の敗戦文書の外交なのでした。
太子様の動きの中で、政治力を得る上での勝ち馬に乗る話が出て来ます。「白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。」これで勝てるのですから、兼知未然の力その物でしょう。こういった事が偶然起きる事もあるのですが、太子様の場合はその能力故だと言えるのでした。ミロク大神様の願いでもあったのでしょう。
この時期に、「仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。」とあるのですが、これは疑わしい部分です。岡山の月のうさぎの先史文明の遺跡は仏教説話由来です。法隆寺は始めから仏教だったと思えていますし、歴史の記録をこの様にして、如何にも仏教が入ってきたように偽装しながら実際に、ここから仏教を広めて、白村江の敗戦以降の国の守りを始めていると思います。
敗戦により中国の支配下に入るのですが、ホツマツタエの神道を手放す以上は中国の儒教文化に侵略される恐れが出るので、善の側の宗教である仏教をここから広めて儒教対策にしているのでした。後からキリスト教も来るので、備える必要があったのだと思われます。こういった流れは未来の計画を知るミロク大神様の世界であり、これに合わせた演出がなされていると見える部分です。太子様もここに協力させられているのでしょう。
続きの冠位十二階と十七条憲法ですが、これを太子様の実績に見せる事で、後の神格化を上手く進められるように、ミロク大神様が配慮した部分ではないかと思います。
高松塚古墳の壁画にも冠は描かれているので、冠位十二階に似た制度は昔からあったはずです。加えて古墳にそれが現物で残されているのですから、ここから急に冠位十二階が中国を真似して産み出されたなどは嘘八百でしょう。ただこれを当時の歴史文書に書いて残すことが目的であり、ここでも神格化への準備なのでした。
十七条憲法も実際には同様です。中央政権が道徳的な文書を公表するのは当たり前であり、白村江の戦いの前にも似たような文書があったはずでしょうし、古い時代でも同様でしょう。2度の戦役に備える動きのない国などあり得ないのでした。ここでも歴史の文書に残すことが目的であり、同じく神格化の準備でしょう。
太子様の外交と言えば、遣隋使の小野妹子に託した国書で有名でしょう。「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」です。
『日本書紀』には遣隋使、隋という文字はない。『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)」との文言があり、没落を表す日没する処という表現は隋の煬帝(開皇11年(591年)に菩薩戒により総持菩薩となる)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)と大いに不快にさせた。なお太子の使った「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとする。)。また、「天子」という表現も天子とは天帝の子である皇帝を意味するとしてきた隋側には許容できないものであった。この国書は俀國が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の俀國と結ぶ必要があった。
日本は約3600年前にも中朝合同軍を撃退した国であり、独立を守ってその配下には入らないという事です。ここでも恐らくですが、独立の意志を見せることこそ重要であり、隋と唐に飲み込まれて行く姿は既にミロク大神様には明確だったでしょう。これがあるので刺激的な文書を残して、独立の重要さを分かるようにしているのでした。ここでも目的は神格化への準備なのでした。
記紀にはあからさまな嘘があり、大化の改新など起きていないでしょう。
大化の改新(たいかのかいしん)は、皇極天皇4年(645年)6月12日の乙巳の変に始まる一連の国政改革。狭義には大化年間(645年 - 650年)の改革のみを指すが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む。改革そのものは、年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。
この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。この改革により、「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになったとする説もある。中大兄皇子と中臣鎌足は、退位した皇極天皇に代わり、弟の軽皇子を即位させた(孝徳天皇)。その孝徳天皇即位の直後から新たな時代の始まりとして日本で初めての元号「大化」を定めたとされる。
このタイミングで元号大化が出来たなら、もう少し記録があるでしょう。大化の文字が出てこないのでした。加えて倭国を日本に変える理由がどこにあるのでしょうか。ヤマトは今でも使われる言葉ですが、日本にはどんな思いを込めているのでしょうか。
大化の改新には、遣唐使の持ってきた情報をもとに唐の官僚制と儒教を積極的に受容した部分が見られる。しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分が見受けられる。
結局の所は663年の白村江の敗戦で、決定的に日本は負けたのであり、対馬から侵略されると国を保てないのでした。実際にそれは元寇として起きてくるのですが、台風という幸運もあって過ぎているだけでしょう。
大宝律令の意義に挙げられるのは、中国(唐)の方式が基準の制度への転換にある。
冠位十二階の制度は、当初は徳目をあらわす漢字で個々の官位を示していたが、数値で上下関係を示す中国式に変わっている。また評も、中国で地方行政組織の名称に使われてきた郡に用字を変えている。
遣隋使の派遣以来、7世紀の間に100年ほどの歳月をかけて蓄積した中国文明への理解によって、朝鮮半島経由の中国文明ではない、同時代の中国に倣うための準備が可能になってきていたことを意味する。
663年の白村江の敗戦こそが、倭国を日本に変えた理由であり、日出る処の国だから、国号を日の本で日本としたのだと思えるのでした。これは普通に考えて663年よりも後でしょう。遣唐使がどの様な敗戦なら中国側に受け入れられるかを聞きに行き、それに合わせて倭国は解体されることになったと考えられるのでした。そしてここから法制度の改革に励んで、700年くらいの漢文の大宝律令の完成だと思われます。ここからやっと歴史の資料になるのでした。
3に続く
稲生雅之
イオン・アルゲイン